音楽を奏でたいから奏でる ~スパルタ吹奏楽と根性論からの脱却~

以前も似たような記事を書きましたが、バジル先生(@BasilKritzer)のツイートを見て、改めて自分自身が考えさせられることがあったので、再び似たようなことをつぶやいていこうと思います。
そのきっかけとなったツイートは、次のようなものでした。
スパルタ指導と根性論は、非倫理的。効果的かどうか以前に、人としてやってはマズいこと。
あとはね、生徒を不安にさせることで行動に駆り立てるのも倫理的にダメです。そういうのは「がむしゃらさ」や「必死さ」を引き出しはするけれど、それでうまくいく生徒なんて、ごく少数です。そして、身体または心に大きな傷やハンデを背負わせる可能性すらあります。
確かに、心に一度負った傷は消すことはできません。
何でもかんでもありで甘やかすのは教育的ではありませんが、不安や危機感ばかりを煽って無理にやらせるのもまた教育的ではないと思うのです。
だからこそ、まず指導者である自分が心から音楽を楽しみたいと思うのです。
自分が楽しんでいなかったら、そんなもの子どもたちがやろうとなんて思えるはずがありません。「音楽ってこんなに楽しいから一緒に楽しもうぜ!」くらいの気持ちで、子どもたちと向き合っていきたいと思います。それが結果として向上心にもつながってくるはずだと思うからです。
どんな人だって楽しいことならどんどんやりたいと思えるはずです。そしてやるからできるようになって、できるようになるからもっと世界が広がって楽しくなります。こうしたプラスのサイクルを回していくのが指導者の役割なのかもしれないと改めて思います。
また、吹奏楽においてはコンクールがスパルタ指導と根性論の根源となっていることは否めません。
徹底的に「合わせる」ということを追求していかないと結果を残せないし、そのためには「合うまでやらせる」「できるようになるまで頑張らせる」ということがどうしても必要になってくるからです。
でも本来音楽は「~したいからする」ものであって、しなければいけないものでも、頑張るものでもありません。「奏でたい」「もっと~したい」という想いを実現する為のフォローをするのが指導者の仕事なのだと思います。
「できないのは頑張っていないからだ」と根性論で生徒を切ってしまうのは教育的ではありません。
できるようになったことを見つけ、もっと「~したい」という気持ちを引き出し、その方法を共に考え、試し…というサイクルを子どもたちと共につくりだすことができるか。
「~したい」という気持ちに応えられるだけの引き出しを自分自身が持っていて、共に「~したい」という目標に近づくために創意工夫していけるか。
「~したい」という夢を支え続けるために共に歩むことができるか。
根性論ではなく、具体的に道を示すことができるか。その為に学び続けることができるか。
指導者自身が学び成長していこうという気持ちを持ち続けることができるか。
目の前にいる一人ひとりの「~したい」という気持ちとしっかり向き合うことができるか。

ある意味精神論なのかもしれないけれど、そういうことを大事にして互いに信頼し合える関係をつくっていきたいし、それによって少しでも夢に近づいていきたいと思います。
すべては奏でたい音楽のため。
聴き手の心を揺さぶるような情熱のある演奏をするため。

「~したい」という止められない想いを思い切りぶつけていくことで、本当に自分らしい良い演奏ができるはずです。その「自分らしい良い演奏」のレベルを上げていくためにも、普段から「~したいからする」の気持ちを大切に練習を重ねていきたいと思います。
そして、部員たちが奏でたいと思う音楽を実現していくために、じっくり向き合って道筋を示すこと。そして、そっと背中を押すこと。時には寄り添うこと。それが今の自分に求められていることであり、自分がしたいことのように思います。
スパルタ吹奏楽や根性論に頼らず、でも子どもたちが心から音楽を楽しみ、壁にぶつかったときには寄り添い、そしてお客様の心に響く演奏をつくり出せる指導。理想かもしれないし、なかなか「結果」には結びつかない面もあるかもしれないけれど、じっくり時間をかけて、そういう指導が実を結ぶことを信じて、また今日から頑張っていこうと思います。
(Twitterまとめ)

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