「できていないこと」=「ダメなこと」ではない!

先日、「ダメ出しは頑張っている人を無気力に追い込む力を持っている」というツイートをしたところ、かなりの反応をいただきました。それだけ理不尽な指導に対する関心を持っている人が多いのだということを痛感しました。

「ダメ出しの功罪」については、これまでも記事にしてきましたが、今日は改めて「ダメ出し」について自分が思うところを、自己反省も含めてつぶやいていきたいと思います。

 

「できていないこと」=「ダメなこと」ではない!

部活の練習でも、勉強でも、ある一定の目標があって、その「なりたい自分」「できるようにしたいこと」を実現していくために自分の実力を高めていこうとすると、頑張れたりするものです。

しかしその過程で、目標となることと比較して、

「〇〇ができていない」

「〇〇の力が足りない」

という“できていないところ探し”が始まり、挙句の果てに

「できていないのは、努力が足りないからだ」

「力不足なのは、根性が足りないからだ」

「こんなこともできないのが、ダメだ」

というダメ出しの精神論に陥ってしまうこともあるように思います。

もちろん、自分の目標とすることを達成するために、次にどのようなことをしていけばよいのかを知ること・考えることは必要なことです。

しかし、「できないこと=ダメなこと」では決してありません。

なぜなら、「今できないこと」だからこそ、目標になっているからです。

すでに達成している目標を目標にする人はいるでしょうか?目標というのは、夢に近いような大きな目標から、すぐに達成可能な目標まで、さまざまです。しかしいずれにしても、今の自分ができていないことだったり、これから達成・実現したいなと思うことだからこそ目標になるのではないでしょうか。

目標とすることができていないのは、当たり前のことです。

開き直りにも思えるかもしれませんが、これは紛れもない事実です。まずこの視点に立ってみると、自分に対しても、誰かに対しても辛く当たることはないかなと思います。

 

「ダメ出し」に潰されるのは、頑張ろうとしている人

人からダメ出しされ続けると、初めのうちは何とか頑張って挽回しようとするものの、だんだんと自信がなくなり、やがて無気力になっていくことさえあります。

教員をやっていると、結構ダメ出しの現場に居合わせることが多いように感じます。自分も例外なく、気づくとダメ出し脳になっていることもあります。

定期テストや模試の振り返り、行事の振り返り、日常生活の振り返りなど、学校生活の中には「今までやってきた結果を振り返り、次にどうしていこうとするのか」ということを生徒に考えてもらう機会も多く存在します。それを元に、生徒と面談をすることもあります。

その時多くやってしまうのは「できていないこと」に注目させるということです。

もちろん、「できていないところをできるようにする」ということ自体は悪いことではありません。しかし、できているところや伸びてきたところに注目せずに、「ここがダメだからもっと頑張れ」のように励ましても、「自分はダメだから頑張らなくちゃいけない」と真面目な生徒ほど自分のことを追い込んでしまうことも少なくないように思います。

もちろん伝えるべきことはあると思いますし、ただ甘やかせばいいわけでもありません。でも、言い方伝え方、その元となる思考には気を付けたいものです。

ダメ出しされる相手が親や先生、指揮者だったら尚更のこと。「喝を入れて頑張らせよう」「悔しい気持ちを引き出して頑張らせよう」といった善意のダメ出しであっても、頑張っている人を無気力に追い込む力は持っています。

例えば、何度やっても上手くいかないところがある生徒に向かって、次のように声掛けをしたとします。どの声掛けが、一番素直に受け取ることができるでしょうか。

A 「なんで何度やってもできないんだ!お前バカか!」

B 「できないまま合奏に乗っているのか!外行ってさらってこい!」

C 「できないのは練習が足りないからだ!もう一度やってみろ!」

D 「もう少しゆっくりなテンポで、どこが上手くいかないのか確認してみよう!」

E  「そこはどうやって演奏したい?そのためにはどう練習すればいいだろう?」

これらの例は、実際に自分が耳にしたことがあるものです。極端な例かもしれないし、人によって受け止め方も異なるかと思いますが、同じところを指摘するにしても、印象がだいぶ違うことが分かると思います。

頑張ってやっているのに、それを真っ向から全否定されてしまうほどつらいことはありません。本気でやっていればやっているほど、「ダメ出し」「全否定」は受けるダメージも大きいものになると思います。

私自身、これまで指導者からこっ酷くダメ出しをされて、悔し泣きながら練習したこともあります。その記憶は何年たってもあまりいい思い出とは言えませんし、自分の中でどこかトラウマとなって残っている面もあるような気がします。

できていないところに気付かせることも、今の現状を包み隠さずに伝えることも大切なことです。しかし、それがただの「ダメ出し」になってしまって、その先どうすればよいのかが具体的に示されていなかったり、根性論に頼るようなものになってしまっては、ただ生徒を委縮させてしまうだけです。そのような指導は、指導だとはいえません。

 

なぜ「ダメ出し」に頼ってしまうのか

しかし、私も生徒に「ダメ出し」をしたことがないわけではありませんし、つい「ダメ出し」になってしまうことは今でもあります。結果として、私がトラウマを植え付けてしまった生徒も少なからずいるような気がします。

では、なぜ「ダメ出し」に頼った指導が起こってしまうのでしょうか。

一つには、生徒との信頼関係があげられるかと思います。

生徒が頑張っている様子を普段から見ていたり、成長していく過程を感じていたりすれば、自然とこの先も生徒の力は伸びていくだろうと信じて、生徒の現状に合わせたアドバイスができるように思います。生徒も普段から先生に見守られているという実感があれば、委縮することなく、自分のやりたいことを安心してやっていけるものです。そのあたたかな信頼関係があれば、理不尽な指導などしなくても、生徒を成長させることはできるはずです。

しかし実際には、その信頼関係を十分に築けていない状態で指導にあたり、気持ちのすれ違いから「なぜこんなに言ってるのにできるようにならないのだ!」と自分の指導力を棚に上げてしまうことも少なくないように思います。厄介なのは、指導者となる人は使命感が強いがために「絶対に上手くさせてやる!」「絶対にできるようにしてみせる!」という気持ちが強すぎて、結果として指導が一方的になってしまうことがあることです。生徒を信頼することで、生徒の成長を焦らずにゆっくり見守っていけたら、ダメ出し根性論には陥りにくいのかもしれません。

二つ目には、結果を急いで求める風潮があげられるかと思います。

吹奏楽部でも運動部でも、コンクールや試合の結果をすぐに求める風潮が少なからずあるように思います。もちろん、出場するからには結果を求めることは当然のことですし、それを目指して練習を組み立てていくことも必要なことです。

しかし、限られた時間の中で、指導者も「上手くしなければいけない」「できるようにさせなければいけない」というプレッシャーの中、自分のプレッシャーを生徒にぶつけてしまうこともあるように思います。また、ダメ出しをして強権的にやらせることで、早く結果につなげようとすることもある気がします。

これらは、「具体的にどう進めていけばよいのか」というプランを持つことで防ぐことができるように思います。その都度、何をしたらよいのか、何が目の前いいる生徒にとって最善の策なのかを考えることができれば、ダメ出しに頼らず、建設的な言葉で指導をすることができるように思います。

三つ目には、「自分がくぐり抜けてきた道だから」というのがあるように思います。これがもしかしたら一番面倒くさいところかもしれません。

多くの場合、指導というのは自分の経験を基にして行われるものです。それ自体は間違っていることではありません。なぜなら、自分で経験して納得しているものでない限り、それはただの知識の伝達になってしまい、相手の成長に責任を持つことができないからです。もちろん新しいアイディアを初めて生徒に対して試してみるという場面もありますし、必ずしも自分の経験によるものだとも思いませんが、自分が積み重ねてきた経験というのは、その人の指導方法に大きく影響しているように思います。

そこで問題になるのが、「理不尽なダメ出しにも耐えて指導者になった」という人が割と多いということだと思います。途中で理不尽さに疑問を抱いて、自分が指導するときの反面教師にしている人もいるかと思いますが、理不尽さに耐えられなくなって辞めてしまう人も少なくありません。多くの場合は「あの先生の厳しい指導のおかげで今がある」という、理不尽さを乗り越えてきてしまった人が、教員になる人の中には多いということです。

そのため、たとえそれが理不尽な指導であったとしても「自分にとっては有意義だった」という意識がはたらき、それを生徒に対しても行おうとしてしまうことがあるのだと思います。また、「自分たちだってこれを耐えてきたんだから、これくらい当たり前だ」という感覚もどこかにあるような気がします。根性論が根深いのは、こうした指導者側の成功体験に裏付けられているところもあるのだと思います。

しかし結局、ダメ出しに頼ってしまうのは指導力のなさを公言しているのと同じだと思います。生徒ができていないことは、指導者自身ができていないことだったりもします。「生徒は教師の鏡」だからこそ、生徒がどうしたらできるようになるか、感じ取れるかをまず自分で体験してみること。自分が潜り抜けていないことを相手に伝えることは難しい話です。

生徒が音楽にのれていなかったら、自分がその音楽にどっぷり浸れるほど付き合えているかを問いかけてみます。練習でも音楽をすることには代わりありません。そこで音楽にのせられていないのは指導者が本当にのれていないから。生徒を責める前に、自分ができることをやれているか考え直したいものです。

 

まとめ

本当は本気で頑張ろうと思っているのに、妥協して甘い方向ばかり向いてしまったり、自分の中の真面目さを茶化してしまったりする姿を見ると、「それでいいのか!」とダメ出しをしたくなることがあります。でも言い方やタイミングに気をつけないと、根っこにあるやる気を削いでしまうこともあります。

言い方伝え方は本当に大切。できれば、相手が自分自身で気づけるように促したり、どうすれば良くなるのかという具体的なアイディアの提案ができたらとも思います。親切のつもりでただ「できていない」ということだけを伝えたり、自分の考えを強制するのは、本当は無責任なのかもしれません。

指導する立場に立ったら、誰よりも時間を惜しまずに準備をして、自分ができるであろう最善の策を用意して臨むのが理想です。もちろん常にやり続けるのは難しいことかもしれません。でも自分ができる最高のパフォーマンスを提供して、生徒が伸びていく喜びや楽しさを追究していけたらいい気がします。

根拠のないおだてではなく、自分が頑張っていることを誰かが見ていてくれて、それを実感できると安心するし、その積み重ねが自信に繋がっていく気がします。もちろん自分でそれができたら申し分ありませんが、せめて大人は子どもたちが自信を持って好きなことに打ち込むように支えていきたいものです。

 

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