エネルギーは内に込めずに、外に出していこう!

先日、Twitterのタイムラインで興味深いツイートを拝見しました。

これを見て、10年位前にアンサンブルコンテストの講評で、審査員の先生がおっしゃっていたことをふと思い出しました。

それは、

日本のノコギリは引くと切れるけれど、西洋は押すと切れるのを知っていますか?西洋音楽は外の力を内にこめるようにではなく、内から外に解放するように演奏しましょう。

というお話です。

私自身、小学生で楽器を始めてからというもの、「もっと重心を下にして」「気合を込めて」「臍下丹田!」と言われ続けてきて、もちろんそれらの言葉も解釈次第では必要なことだと思うのですが、自分自身はその言葉に囚われすぎて、エネルギーをため込むことばかり得意になって、自分の持っているエネルギーを存分に使うことにつなげられなかったことが多かったので、この審査員の先生のお話は自分の演奏に対する考えを考え直す一つのきっかけとなりました。

今日はこのことについて、少し考えてみたことをつぶやきたいと思います。

 

西洋の道具と日本の道具の違い

私は料理が趣味で、つい面白い調理器具があると購買意欲を掻き立てられる習性があります。ということもあってか、野菜の皮むき用のピーラーも家に2種類あります。

1つ目は、日本の家庭でよく使われている、ごく普通のピーラーです。

 

2つ目は、手前から外に向かって使う西洋のピーラーです。

*裏で流れているニュースの音声は気にしないでください…

これらの道具のどちらが良いか、ということは全然なくて、いずれも切れ味が良いし、便利な道具に違いないのですが、動かす向きを逆にすると、途端に使いづらくなります。

刃のついている向きが違うわけですから、それは当然のことでもあるわけですが、使い方を逆にするだけで、道具としての性能が大きく落ちてしまうというのは面白い話です。

審査員の先生のお話にあった「のこぎり」も同様のことが言えます。

 

道具の構造の違いは何によるものなのか?

では、この道具の構造の違いはどこから生まれたのでしょうか?

諸説ありますが、からだのつくりによるものも大きいのではないかと考えられています。

のこぎりでも刀でも、押して切るときには腕力や体重が必要です。しかし、引いて切るときには体全体をうまく使うことができれば、腕力はあまり必要ではありません。西洋人と日本人の体格を見てみると、やはり骨格そのものから西洋人の方が大きく、腕力は使いやすい傾向があるように思います。このことからも、日本人は体をうまく使うことで、できるだけ腕力を使わずに効果を得る方法を体得してきたのかもしれません。

それに加え、日本人はもともと農耕民族ですから、鍬などを使って田畑を耕し、屈んで稲を植えて米を育てるというサイクルを繰り返してきたはずです。このような作業を力技でしていたら大変なことです。柔道でも「柔良く剛を制す」と言われたりしますが、重心を下に下げて、外からのエネルギーを上手に取り込んで、自分の力として利用するという体の使い方が日本では自然とされてきたのではないかと思います。

また、西洋は硬い材質の木が多かったこともあり、体重をかけて力を入れやすい「押して切る」方法が選択され、日本は比較的柔らかい材質の木が多く、細かい加工にも使われることから、力を使わずに切ることができる「引いて切る」方法が選択されたのではないかという説もあります。

「どちらが良い」ということではなくて、環境や体格、その他諸々の要因によって、西洋と日本では違った方法が意図的に選択されてきたと言えるでしょう。

 

西洋音楽とエネルギーの使い方

先のツイートでも紹介されていた、樋口桂子 さんの『日本人とリズム感 ―「拍」をめぐる日本文化論― 』という本を読んでみました。

この本では、言語に注目をして、日本人固有の拍やリズムのとり方がどのようなことに基づいているのか、様々な方面から考察しています。中でも印象に残ったのが、次の文です。

日本語に限らず、生活様式は言語のアクセントをつくる。それは個人的な次元での身体感覚に留まらず、その言語をもちいる人々の身体の動きや所作・動作をつくり、それをそこに生きる人々の全体に付す。生のスタイルは人の行動をかたどり、身体のリズムと言語のリズムを形成する。体得された生と言語のリズムはさらに人の皮膚感覚となり体感となって、筋肉の動きの原型をつくってゆくと考えられる。

 

「生活様式が、リズムをつくり、筋肉の動きの原型もつくる」というところがとても面白いなと。日本は狭い土地、急勾配な山地などでも水田耕作をしてきたために、腰を落として力を込めるような身体の使い方がされてきたけれど、西洋では馬に乗り、狩猟をしていったために脚で蹴って前に前に進んでいこうとするような身体の使い方がされてきたのではないか。そう考えると、人間も環境や生活様式に合わせて工夫しながら進化を重ねてきたのだなと、感心させられます。

ただ、生活様式が西洋化している現代の日本でも、まだその筋肉の動きの原型は脈々と引き継がれていて、西洋音楽を奏でるときにも、自然とその身体の使い方をしているのかもしれないと思うと、生物の身体と進化の可能性の大きさに、圧倒されました。

しかし、私が演奏しているトランペットはもちろんのこと、吹奏楽やオーケストラで用いられている楽器は西洋の楽器ですし、それらの楽器を使って奏でている音楽も西洋音楽や、西洋音楽に基づくものがほとんどです。

この違いは、打楽器の叩き方を見るとわかりやすいように思います。

下の映像の4分あたりのところで、鼓を打つ場面があります。

手はとてもしなやかに使われていますが、手そのものの位置はあまり動くことはなく、外からのエネルギーを上手に鼓の皮に伝えているように見えます。また、叩いた後もすぐ手が遠くに離れていくことがなく、そのエネルギーをすべて鼓に伝えようとするようにも見えます。この静的な動きは、鼓に限らず、空手の型や歌舞伎などでも見られ、それが日本の芸術やスポーツの礎となっているように感じます。

一方で、下はティンパニを叩く様子です。

手のしなやかな使い方は鼓と変わりませんが、大きく異なるのは、マレットが皮にあたった後、手が上に上がっているということです。叩いた瞬間に、もう次の音に向かってエネルギーが使われ始めているように見えます。西洋のスポーツも「ゴールに向けて前に走っていく」ものが多いのも何だか納得できるような気がします。

 

この解釈がいいかどうかはわかりませんが、このように考えてみると、西洋の楽器を使って、西洋音楽を奏でようとするときには、外からのエネルギーを内に込めて使っていくのではなくて、自分が持っているエネルギーを信頼して、そのエネルギーを外に放出していくようなイメージを持って奏でていくことが必要な気がしてきます。

この意識の違いを持つだけでも、西洋のピーラーを手前に引いて使うと全然切れなかったように、西洋の楽器を扱っていくときにも、”道具の特性を活かさないで、無理に使って効果をねじり出す”という非効率から脱却し、“道具の特性を活かして、効率的に自分の力を発揮していく”ことができるようになると思います。

 

アレクサンダー・テクニークは自分の力を引き出す技術

話が変わりますが、私は今、セルフクエスト・ラボという学びの場で、アレクサンダー・テクニークを1から学び直しています。

先日の授業で、J.B.アーバンの「Beautiful Snow」という変奏曲の中から、トリプルタンギングが続いて昔から苦手だった部分を吹いてみる機会がありました。

なかなかタンギングと指が噛み合わなくて特に苦手と思っている部分(上の譜例の2小節目)を吹こうとしたときに起こる身体の変化について、いくつかアドバイスをいただくことがありました。

  • 身体の動きに、上半身だけでなく、脚も仲間に入れてあげる
  • 常に、息を下から上に向かって送り続けていくと誓う

自分自身の身体の状態を観察してみると、「ここ苦手なんだよな」「ここ難しいんだよな」と思った瞬間に、力を内側に込めるような身体の硬直(関節の硬直)が起こり、同時に息を飲み込んでいることに気づきました。

本来、生物は生命の危険を感じると、身体を硬直させて、防御の体制に入ります。ですから、自分のこの行動は、自分が苦手に感じているものから自分を守るための防御機能がきちんと働いているということの証明です。

しかし、「演奏をし続ける」ということを第一目標においた場合は、防御体制に入るのではなく、どちらかといえば攻撃体制(外に向かって自分のエネルギーを発散し続ける)ことが必要になってきます。

 

次に、アドバイスいただいたことを意識して、「難しい場所も生命の危機まで及ぶ危険ではない」と思って同じところを吹いてみたところ、指がつっかかることはありましたが、防御機能が働いていたときよりも、精度は高く吹ききることができました。

ただ一点言うとすれば、いつももっていたはずの息がもちませんでした。

これまでよく効くブレーキを持っていた分、そのブレーキにも勝つくらいのエネルギーを使って楽器を吹いていたため、ブレーキが外れたら、同じ量のアクセルを踏んでいたつもりでも、必要以上にエネルギーを使ってしまったのです。

「あ、こんなに必要のない力を使いすぎて頑張っていたのだ」

ということを、改めて体感する出来事でした。

そして、「アレクサンダー・テクニークというのは、自分が本来持ち合わせている力を最大限活かすための技術なのだな」ということを改めて教えられた気がしました。いわば、燃費の悪い車でも運転できるけれど、燃費が良くなってより快適にエネルギーを使いすぎずに運転できるようになるようなものだと思います。

 

アレクサンダー・テクニークを学んで、できるようになることは増えます。

でも、自分が持ち合わせていないことまで、いきなり何でもできるようになるような魔法ではありません。

だからこそ、まずは自分自身の実力を高めていく努力は惜しまないこと。その上でその実力を発揮するために壁になってしまっているようなことを外し、本来の自分がもっているすべてを出し切れるようにアレクサンダー・テクニークをつかっていく。

アレクサンダー・テクニークもまた、西洋のものですから、受け身ではなく、積極的に自分の中の思考も身体も使っていく方向に持っていくことが多いです。その点でも、西洋音楽とは相性がよいのだと思います。

力を内に込めていくのではなくて、外とのつながりを大切にしながら、外へ向かってエネルギーを使っていくということも、自分の持っている力をより効率的に発揮していける一つの方法のように思います。

だからといって、内に込めていく力の使い方がいつもすべて悪いわけではありません。目的に応じて、自分自身の意思によって、エネルギーや力の使い方を選択していけるようにしたいものです。

そんな風に思って、これからも自分自身はもちろんのこと、生徒たちの実力を信じ、可能性を信じて、よりそれらを発揮するためにはどうすればよいのかを考えながら、じっくり向き合っていきたいなと思います。

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