吹奏楽部は「宗教」なのか?

「吹奏楽部は宗教」という言葉をよく耳にします。
恐らく、一般的な吹奏楽部のイメージとして、次のようなところを客観的に見た結果、そのように言われるのだろうなと思います。

・何でも大きな声で「はいっ!」とそろった返事
・辛く厳しい練習でも、歯を食いしばって頑張り続ける
・指導者に罵声を浴びせられても、涙を流しながらついていく
・失敗は決して許されない雰囲気
・長時間にわたる練習、欠席は許されない

このような情景の一端を見ると、部活や指導者(顧問)にある意味“洗脳”され、部活を第一に考え、その教えが絶対で、それ以外は許されないようなイメージができあがるように思います。その“洗脳”が「宗教」のように感じられるのかもしれません。
実際、そのような部活も少なくないと思いますし、“洗脳”されたまま大人になってその世界が絶対と思っている人もいれば、冷静に物事を見ることによって、また違った道を進んでいる人もいると思います。
もちろん、すべての吹奏楽部がそうだとは限りませんし、吹奏楽部でやっていることや、そこで頑張っておられる先生方のことを否定するつもりは毛頭ありません。自分自身、吹奏楽部にいたからこそ学んだことはたくさんありますし、感謝しているところもたくさんあります。
ただ純粋に、どこが「宗教」と言われるところなのか、これからの吹奏楽部はどの方向を目指していけばいいのか、今日は自分なりに考えてみたことを書きたいと思います。
では、そもそも“洗脳”とはどのようなことを指すのでしょうか。辞書には次のように記されています。
せんのう【洗脳】
( 名 ) スル
①第二次大戦後の一時期,共産主義者でない者に共産主義教育を施して思想改造をはかったこと。
②転じて,ある人の主義・主張や考え方を根本的に変えさせること。
『デジタル大辞泉』より


一般的に言われている吹奏楽部における“洗脳”という言葉は、②の「主義・主張や考え方根本的に変えさせること」という意味で使われているのだと思います。
確かに“洗脳”されたかのように、ある一つの考えに固執するあまり、自分の思考が停止してしまう状況になることには、自分も違和感を感じます。
吹奏楽部の活動も、教育現場で行われていることです。教育とは本来、子どもたちが自分の力で歩んでいくための土台をつくっていくためのものであり、決して「命令を忠実に守るロボット」を製造することではないと思います。ですから、指導者が生徒を言いなりにしようとするのも、生徒が受け身になって指示待ちになってしまうのも、教育という観点からは少し違うのかなと思います。
「言われたことやルールを守る」ことも集団の中で生きていくためには必要なことですし、それを身に付けてもらうことも教育の一つの役割だとは思いますが、その意味を考えたり、自分たちで必要なルールを考えてみたりするような機会をつくることも大切なように思います。ただ言いなりにさせるのではなく、そこに「自分で考える」という過程をはさむことで、将来自分で必要なことを判断できる力を育むことができるような気がします。
一方で、集団をまとめるためには、リーダーにカリスマ性だったり、信頼感のようなものがある必要もあると思います。それは指導者でも、生徒のリーダーでも同じことが言えると思います。
そうした資質は生まれつきのものもある反面、その人たちの努力や経験によって培われていった人柄のようなものもある気がします。
現在、吹奏楽部業界で有名になっている先生方の多くも、毎日生徒たちと真剣に向き合い、試行錯誤しながら様々な苦労を乗り越えてきた結果、「この人と音楽をつくっていきたい」「この人についていきたい」と思わせるような人柄をつくりだしていったのかなと思ったりもします。またそれが「宗教っぽい」と言われる所以になるのかもしれませんが、多くの先生方は、努力して指導者としての資質を磨こうとされていると思いますし、それを頭から否定してしまうのも違うように思います。
ただ状況がエスカレートして、指導者がいわゆる「教祖」のようになり、指導者自身が権力を握り、謙虚な心を忘れてしまうと、いろいろ歪みが生じてきます。
あくまで主役は生徒。目標はいい音楽、そして生徒が自分で考えて行動することができるように促していくこと。その過程としての教育。これらを指導者自身も、生徒自身も忘れずにいることで互いにプラスの関係を築いていくことができるように思います。
音楽の前では指導者も生徒も平等な関係にあるはずです。まして指揮者ならば尚更です。指導者であると同時に、指揮者は奏者と共に音楽をつくっていく役割です。上下関係は本来はないのだと思います。
しかし、だからといって指導者である大人と、子どもたちは決して「お友達」ではないですし、あくまで「公的な関係」であることには変わりありません。そこは気を付けていたい部分でもあります。
私も若い頃は「お友達感覚」になっていた面はありますし、卒業生の中には仲良くさせてもらっている子たちもいます。もちろん教師と生徒の仲が良いことはいいことでもありますが、最低限の線引きは必要だと思います。それは、いざという時に「叱れる」ことも大切ですし、「狎れ」によって「何でもあり」の状況をつくり出してしまうことは、かえって子どもたちの成長を妨げてしまうこともあると思うからです。
このあたりのバランスが難しいと思います。自分も最低限の線引きはしつつも、できるだけ「人と人」として子どもたちと接していけたらなと考えています。
さて、ここまで「洗脳」と「指導者在り方」について感じたことをざっくり書いてきました。もう一つ、「宗教」と言われるからには考えてみたいことがあるので、続けたいと思います。
「宗教っぽい」というと、だいたいがマイナスの意味で使われることが多いと思います。自分も特定の宗教を信仰しているわけではありませんし、神社に初詣に行き、お寺に厄払いに行き、クリスマスを祝うような典型的な日本人ですので、「宗教っぽい」という言葉を耳にすると、マイナスイメージがはたらいたりします。ただミッション系の学校に通っていたので、一般的な日本人よりは抵抗感は少ないかもしれません。
人によって感じ方は違うと思いますが、個々に信じるものがあって、自分自身の意志でそれを真っ直ぐに貫こうとすることは誰かに否定されるようなものではないし、悪いことではない気もします。そこに判断力がなくなってしまうほどどっぷり浸りこんで、周りが全く見えなくなってしまうのは問題ですが、周りのことも見えていて、周りのことを否定するでもなく、ただ自分の信念を貫こうとするのは悪いことではないと思うのです。
自分の信念を持つには、一度は何かに徹底的に打ち込むことも必要だと思いますし、同時にいろいろな考え方を知ったり、様々な経験をしてみることも必要だと思います。
惜しまれつつ亡くなった、故・中村勘三郎さんが、生前次のようなことをおっしゃっていたそうです。
「若い人はすぐ型破りをやりたがるけれど、型を会得した人間がそれを破ることを『型破り』というのであって、型のない人間がそれをやろうとするのは、ただの『かたなし』です」

自分のスタイル、自分の道を確立して、自分で歩んでいけるようになることは大切なことですし、教育の一つの目的であると思います。しかし、そのためには自分で考えるための土台となるものを指導者が教えること、指導者から習うことも必要です。「これは自分でもやっていこう」とか「自分はこのやり方は合わない」といったことも、実際にやってみなくては分かりません。
そういう意味では、やり方(教え方、伝え方)は慎重になる必要もありますし、根性論や体罰、暴言はあっていけないと思いますが、初めから「自主性」のもとに生徒を放り出してしまうのも、無責任なのだろうなと思います。
たとえば、掃除当番などは最初の3日間できっちりやり方を教えて、1週間は生徒と一緒にやり、1ヶ月は見守り、あとは時々見に行くようにするという感じでやると、だんだんと生徒が自分たちでできるようになってくるという話を聞いたことがあります。ある意味”洗脳”っぽく感じるかもしれませんが、初めに何をどのように教えるかは大事なことですし、自由に考えて行動するにはまず一つのやり方を教えることも必要だと思います。
どこまで丁寧に教えて、どこから手を離していくのか。生徒たち自身の力を信じて任せることができるのか。多感で吸収力のある時期だけに、一つの価値観を教え込んでしまったら、なかなかそこから考えが抜け出せなくなってしまうこともあります。そうしたことを常に考えて、指導者もいろんな視点から指導にあたることが必要だと思います。
何事も、行き過ぎると息苦しさが生まれます。人間関係に歪みが生じることもあります。
これまでの様々な先生方が培われてきた「吹奏楽部の伝統」を受け継ぎつつも、目の前にいる子どもたちにとってどんな部活にしていったらよいのか模索してけたらなと思います。そのためにも、自分自身も「型」を学び良いと思うところを吸収しながら、同時にそれを打ち破る力も身につけていけたらと思います。

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