「本番に潜む魔物」の正体とは何か?

先日母校のメサイア公演に合唱で参加してきました。初めての合唱で、譜面を追いかけるだけで精一杯でしたが、周りの方々に支えられながら、楽しく歌うことができました。
そんなこんなで、何だか無性にメサイアに燃えてた頃が懐かしくなって、久しぶりに学生時代のメサイア公演のビデオを見てみました。しかしやっぱり、自分のソロはヒヤヒヤもので、「来年はプロをお願いします」とアンケートに書いた人の気持ちもよく分かるような気がしました。
なぜ、あそこまで吹けなかったのか。
もちろん実力が伴っていなかったこともあると思いますが、それだけではない、本番に潜む魔物にやられていた自分がそこにはいたような気がします。
昔から自分は、本番になると途端に外しまくり、落ちまくり、せっかくソロをもらっても不本意な結果で終わることが多かったように思います。それでも若いうちは「次こそ決めてやる!」という意気込みでぶつかっていくことができたのですが、あまりにも上手くいかないことが多いので、それで落ち込むのが嫌で、いつの間にかトップとかソロから逃げるようになっていった気がします。
気づいたら、本番が嫌いなラッパ吹きになっていました。
奏者が心から楽しんでいなかったら、お客様を楽しませることなどできません。そんな風に思うと、何だか情けなくて、指導にも自信の持てない時期が続きました。
そんな自分ですが、アレクサンダーテクニークに出会って、少しずつ音楽を楽しむ心を取り戻してきたような気がします。
一番大きかったのは「間違えてもいい」と思うことでした。
決して間違うことを推奨しているわけではないですが、「上手く吹けなくてもいい、間違えてもいい、でも音楽する心だけは忘れずにいよう」と思うことで、自分自身が完璧主義の呪縛から解放され、身体も心も伸び伸びと演奏できるようになるものです。それを今、いろんな場面で実感しています。
「本番に潜む魔物」の正体
それは、「上手く吹かなきゃいけない」「外してはいけない」「あれだけ練習したんだから吹けなきゃおかしい」といった、自分の中にある完璧主義の思考だったのかもしれません。
昔は完全に根性論で生きていたので、自分を追い込めば追い込んだ分だけ結果もついてくるはずと思っていた節があります。
しかし結局自分を追い込めば追い込むほど、思考は「失敗してはいけない」から「失敗するかもしれない」という方向に傾いていき、身体はさらに硬直し、結果として思ったような演奏ができないことが多かったように思います。
そんな自分をさらに否定してしまうと、自信をどんどん失っていくことになります。そして、楽しいはずの音楽が、恐怖にさえ変わってしまうことさえあります。
でも、音楽を恐怖に変えてしまうのは自分自身なのです。
自分自身が素直に音楽を楽しむことを許してあげて、たとえ上手くいかなかったとしても「こうやって演奏しようと試みることができた」ことを認めてあげること。そうやって、ありのままの自分の事を受け入れることで、好きなもの、楽しいものを見失わずにいることができるようになる気がします。
思考は身体とつながっています
それは生物が命を守るための防御機能にもなっています。
自分に危険が及ぶ場面では、戦うか、逃げるか、身を守るかの究極の選択を求められます。その時には、身体を奮い立たせて、危険に立ち向かうことが絶対に必要です。ですから、自分を追い込んだ時に身体が固まってしまうことは当然のことです。
音楽をしていて、生命の危険にさらされることはまずないでしょう。
だから、できるだけ自分自身で自分の事を危険にさらすのではなく、自分を解放して、自由でいられる空間においてあげることは可能なことですし、そのように意識を持っていくことが大事なのかなと思います。
自分の事を追い込むのではなく、ありのままの自分を楽しむこと。
もちろん妥協せずに練習を積み重ねることは大切なことです。でも、完璧主義に陥りすぎて、音楽を奏でることが楽しくなくなったとしたら、それは違う方向に自分を導いていっているような気がします。
間違えてしまう自分も、外してしまう自分も、バテてしまう自分も自分。
そう容易く変わることはできません。でも、それはダメなことではなくて、ただ発展途中にいる自分なだけです。否定することも、卑下することもしなくていいのだと思います。
そんな風に思って、少しずつ本番を楽しむラッパ吹きになっていきたいと思います。

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