自分がどうあるかは、自分自身の手で選択することができる!

今年度もそろそろ卒業式、終業式を迎えます。

…とはいっても、こんなにも学校に行かなかったことは、幼稚園に入る前以来なのではないかというくらい、家にいる時間が長い1年間でした。

オンライン授業の期間中は、仕事とプライベートの区別をつけられずに、うっかり仕事をし続けてしまうという状況はあり、それはそれで気疲れも多かったのですが、対面授業が再開したときに、改めて感じることがありました。

それは、

学校の敷地に入った瞬間に、全身が緊張モードに入る

ということです。

その結果、夕方頃には全身バキバキでどっと疲れが出てきて、何か生み出そうとする気力もなくなることが続きました。「1日働いたのだから、それくらいは当然」「教師はそれくらいはたらいてもらわないと困る」と思われる方も多いかもしれませんが、できたら自分自身のパフォーマンスを落とさずに、何かを創造するエネルギーを持っていたいものです。

このことは前からちょっと気にはなっていて、これまでもSelf Quest Laboの授業の中で取り上げていただいたりもしていたのですが、

ありのまま自分を、安心安全の場に置いておくこと

学校から離れている時間が長かっただけに、改めて学校に入ってみたときに、それを強く感じました。

 

■楽になれるのに、どこか居心地が良くない自分

上の記事で書いているように、学校の門をくぐろうとするとき、

・頭と脊椎の関係を思い出す
・胸骨は骨盤の前にある
・頭の上にも空間がある

ということを思い出して、段々とブレーキが外れていって、本来持っている自分のエネルギーを使って、自然に構内に入るということを、普段はできるだけ心がけています。ただ、それですごく体も気持ちも楽になれる反面、何か守ってくれるものがなくて不安に感じたり、どこか居心地の悪さを感じたりすることもありました。

しかし考えてみれば、新しいことというのは、自分にとっては不慣れなことであり、時には違和感を感じることもあるものです。それだけに、これまでの習慣的な使い方より、新しい使い方のほうが良い結果を得られることを知っていたとしても、「これでいいのかな??」と不安になったり、どこか居心地の悪さを感じることもあるような気もします。

更に厄介なことは、「良い方法」を知ったことで、それが「できなかった」ときに、自分で反省会を始めてしまうことです。「なぜ、やらなかったのか」「なぜ、できなかったのか」「できなかった自分はダメだ」と自分を責め始めてしまうと、せっかく自分が望んだはずの「新しい方法」が、やらなければならない義務となってしまいます

これまでの習慣的な使い方は、自分が意図していなかったとしても、自分にとって何か利益があるから、自然に選択してきたことでもあったりします。自分が構内に入るときに全身緊張するのも、「教師である」というスイッチを入れて、仕事モードに切り替えるための儀式として、必要なものだったのかもしれません。

そう考えてみると、もしかしたら全身を緊張させてしまう習慣も、自分自身で選んでいるのかもしれないなと。今回そんな風に思ったのです。

 

■大事なことは、「自分で選ぶ」瞬間をもつこと

FMアレクサンダーは、著書「Use of Self」の第一章「テクニークの進化」の中で、それまでの習慣とは違った、新しい使い方をしようとするとき、

  • これまでやってきたことを継続する
  • いったん立ち止まってみる
  • 新しい方法を試してみる

という3つの選択ができるということを書いています。

新しいことをやろうとしたとき、「今までやってきたことはダメだから止めよう」とか、「新しいことをやらなくてはいけない」というように、自分自身を拘束してしまうと、結果として萎縮を生み出して逆効果になることがあります。

それだけに、

本当に自分が選択したいと思っていることなのか

新しいことをやろうとするときに、一旦立ち止まって確認してみることは必要なのだと思います。

「今までやってきたことを止めよう」と考えるとつい、これまで慣れ親しんだ習慣を捨てて、自分を罰して、習慣を抑制することだけに意識が向きがちです。一方で「今、自分にとって必要なことをやってみよう」と考えてみると、やろうとすることに意識がフォーカスし、その結果、今までの習慣への意識が薄くなるという結果を生み出すことが多いように思います。

これまでやってきたことも、自分で自分を守るためにやっていたりするものだったりするかもしれません。上にも書きましたが、自分が学校に入った瞬間に身体を硬め、視界が狭くなってしまうのも、ある程度の緊張感を持つことで、「仕事をするぞ」という意識を高める儀式だったのかもしれません。

もしかしたら、その緊張感を必要としているときもあるかもしれない。

それを知った上で、毎回、校門をくぐろうとしたときに、

  • 今日は気合い入れてスイッチ入れていくか!
  • 頭が動けて、体全体がついてきて、自分のまわりにある広い空間とのつながりを感じて歩いてみよう。
  • あえて、何も考えないでいってみるか。

という選択を自分の中でしてみる機会をつくってみると、より「新しい方法」を選んだときには、自分自身にそれをやろうとする意識が強くなるように思います。

そういう意味でも、自分がこれからする行動を、自分自身で選択できるのだということを知っておくことは大事なことなのだなと思います。

その上で、自分がどういう自分でありたいか、自分が望んでいることとは何なのかを、どんなに忙しかったとしても、時々思い出してあげることで、自分にとってその時ベストな選択をしていけるのかなとも思います。

 

今、ちょっと気持ちにゆとりが出てきたこともあってか、学校に入った瞬間に、自分の周りの空間の広さや、自分自身が自由に動くことができる存在であることを思い出すことで、少し居心地が良くなる感じがしています。

授業中、ふと自分のまわりの空間のことを思い出してみると、視野が広がり、教室全体を感じることで、生徒たち一人ひとりの様子が見えてきて、結果として授業で伝えたいことが明確になってきたりすることもあります。

そんな風に過ごしていたら、自分が教員としてどうありたいかということが改めて見えてきました。

「教師である」というプレッシャーを負い続けるのではなくて、生徒と接しているときそのままに、「自分である」ということを大切に、生徒たち一人ひとりと、一人の人間として、これからも関わっていきたい。

きっとそれが、自分の今の一番の望みなのだと思います。それを実現させるためにも、

  • 今自分に何が起きているのかを観察すること
  • 次にどうしたいかを自分で選択する時間をその都度とってみること

を大事にしながら、日々を過ごしていけたらと思います。

 

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