ミュートを使った練習でも、自分らしく奏でるために

4月に緊急事態宣言が出され、7月に部活が再開するまでの3ヶ月間、家で楽器の練習をするにしても騒音の関係で、プラクティスミュート(練習用弱音器)をつけて吹く必要がありました。それでも、アレクサンダー・テクニークの授業やトランペットのレッスンをオンラインで、ミュートを付けた状態でも受けられたことはラッキーでしたが、思う存分に楽器を吹くことができないことが続く中で、自分と楽器、自分と音楽とのかかわり方を改めて考えさせられることが少なからずありました。

今回の記事では、ミュートを付けての練習を、オープンで吹くときにどのように活かしていけるかを、アレクサンダーの発見を利用しながら自分なりに探究してみたことを、授業やレッスンで学んだことも交えながらまとめてみたいと思います。

 

ミュートを使うと何が起こる?

これまでいろいろなプラクティスミュートを試してきましたが、現在はペットボトルでつくった自作のものを使っています。

実際、ミュートを付けていない状態と、付けた状態とを比較すると、ミュートを付けるとかなり音は小さくすることができます。

 

しかし、ミュートを使って練習をし続けると、調子を崩すという人も多いです(私も何度となく調子を崩してきました)。

それはなぜなのでしょうか?

 

金管楽器のミュートは、プラクティスミュートに限らず、ベルの中に入れることで弱音器としての効力を発揮するようになっています(写真はストレート・ミュート)。

吹奏楽器のベルは、空気の出口、つまり楽器でつくられた音が出てくるところですから、音色などにも大きな影響があります。トランペットでは、ベルの材質や大きさ、開き具合などによっても音色や吹奏感が変わることから、楽器を選ぶときにはこだわる人も多いように思います。

そのベルにミュートを突っ込むわけですから、吹奏感や音色は大きく変わります。曲中でミュートをつける指示があるところは、音量的な面もあるとは思いますが、音色を変化させたいと思って作曲家が指示をしているように感じるところが多いように思います。それくらい、ミュートをつけると、何かが起こるわけです。

では、何が起こるのでしょうか?

一般的にはミュートをつけると次のようなことが起こると言われています。

  • 通常の状態より抵抗が強くなる
  • ピッチが変わる(高くなる)

ミュートを付けて抵抗が強くなっている状態で、強引に音を出そうとした場合、息の圧力を余計にかけることになるので、ミュートを付けていない状態で吹いているときと、体のバランスが大きく変わってきます。

さらに耳に入ってくるピッチも若干変わってきますから、それを頼りに吹こうとすると、ツボにあたっていない音で吹いてしまったり、それを無理にはめ込もうとして力ずくで吹いてしまったり、ということが起こりがちです。

もし、そのまま強引に練習し続けていたら・・・

 

調子を崩してしまうことは明らかです。せっかく練習時間をつくっても、ミュートを付けていない状態のための練習には程遠くなってしまいます。

今回も、楽器は吹きたいけれど、ミュートを付けた状態でしか吹ける環境がつくれないし、いつ明けるかわからない自粛期間の間、ずっと吹かないでいるのも怖いし、ストレスもたまるし・・・ということで、ミュートを付けた状態でも調子を崩さずに練習ができるか、ということが最初の壁でした。

 

自分に起こっていることを観察してみる

自粛期間が始まって少し経ち、トランペットの先生からオンラインレッスンの案内をいただいた時、自宅で吹くのが難しい旨をお伝えしたところ、

  • テレビの音量より小さい音なら家で吹いても大丈夫なはず
  • 音が出る仕組みに注目しながら練習をすれば、ppでの練習やミュートを付けた状態での練習でも、ある程度調子を維持することはできる

という提案をしていただきました。実際にオンラインレッスンでは、ミュートを付けた状態やppで演奏するときの注意点を教えていただきながら、初めはハイトーンや速いタンギングなど、身体の圧が高まりやすいものを避けながら練習を組み立てていきました。

先生に音を聞いて頂き、少しでも圧が高まってきたら、また音が出る仕組みに戻って一緒に練習する、ということを繰り返すうちに、だんだんと無茶吹きはしなくなったものの、自分だけで練習していると、やはりだんだんと圧が高まってきて、明らかに調子が崩れそうな状態になってきました。

そこで、まず圧が高まりすぎている状態の時、自分自身に何が起こっているのか、また自分と楽器との関係性に何か変化があるのか、ということを観察してみることにしました。

 

その結果、次のような傾向がよくみられることが分かりました。

① 息があがってくる(余って苦しい)
ワンフレーズ吹くだけでも、途中でだんだん体内の圧力の方が強くなって、身体の中に息が余って苦しい状態になることが多々ありました。楽器を口から離すと、余っていた空気が吐き出され、腹筋が緩んで新鮮な空気が一気にどっと外から入ってくる感じが顕著でした。特に高音に向かってのぼっていくときは、音程も一緒に上がっていき、コントロール不能状態に陥ることもありました。

② 音がひっくり返りやすくなる
「いつもの感覚で」吹くと、楽器が全然味方してくれない状況で、普段であれば何でもないフレーズであったとしても、とにかく音が当たりにくく、すぐに外してしまったり、ひっくり返ってしまったりという感じでした。

③ 結果として、オーバーブローや強いタンギングを誘引している
①②が起こることを避けるかのように、息で圧力を抑えに行ったり、タンギングを強くして無理やり音をはめ込んでいくような吹き方になっていくことが分かりました。

④ さらに練習を続けていくうちに、どんどん前のめりになっていく
③まできた状態で練習を続けていくと、上手くいかないことが増えて、焦りや自分に対する怒りなどの感情が芽生えて、身体そのものも前のめりになり、身体全体が硬直して、さらに負のスパイラルにはまってしまうこともありました。

 

この①~④の観察結果から、状況を改善しようと考えたとき、一般的には次のように考えることが多いように思います。

・息を吸いすぎない、吐きすぎない
・タンギングを強くしない
・前のめりにならない

この「〇〇だったから、次は〇〇しないように」という指摘は、教育現場でも多く使われていると思います。教員がそうやって指示をしてしまうこともあるせいか、生徒が部活で後輩に指示を出しているときの言葉に注目してみても、かなりの割合でこうした指摘になっていることがあります。

しかし、「〇〇しよう」「〇〇したい」と思ってしていることでなければ、それをどうやって止めるのか方法が分からないこともありますし、「〇〇しない」と否定形にこそなっていますが、唱え続けているうちに「〇〇」で頭がいっぱいになってしまって、結果として「〇〇」に支配され、そちらへ誘導されてしまうこともあるように思います。

また「〇〇しない」という“禁止”の指令を自分にすることによって、自分自身の動きが固まり、身体も思考も可動域が狭くなってしまうこともある気がします。

では、どのようにすれば「ミュートを付けたときに起こる問題」を防ぎ、できるだけ自分らしく演奏することができるのでしょうか?

 

 

ミュートを付けた状態でも自分らしく演奏するには?

アレクサンダー・テクニークの授業の中で、この問題について取り上げていただいた時、先生から次のような提案をいただきました。

  • どんな音がくるだろう?と想像してみよう
  • 一音一音どうなっていくか味わってみよう
  • 自分の前方だけでなく、頭の上や背中側など、目で見えないところも含めて、自分が立っている空間があるという意識を持ってみよう
  • 自分自身は音と一緒に行ってしまうことはなくて、ずっと”ここ”に居続ける自分自身のことをよく観察してみよう

これらのことを意識して吹いてみたときに、楽器を持った時に起こる、自分の思考や動きの習慣(クセ)にいくつか気づきました。

  • 「自分が引っ張らなくてはいけない」という気持ちが強くはたらく
  • 「吹こう」「頑張ろう」「音を出そう」という意識が強くなる
  • 前方しか見えなくなり、気持ちも体勢も前のめりになる
  • 初めは意識出来ていても、出てきた音のフィードバックがあると、より「どうにかしなければ」という意識が強くなっていく

その上で、ミュートを付けた状態の楽器から出てくる音を、付けていない状態と同じように扱いたいという欲望がどこかにあるために、かなり”吹きすぎ”の状態になっていることが改めて分かりました。

 

アレクサンダーは、自らの経験から「頭と背骨全体の機能を邪魔していなければ、その人全体がうまくはたらく」と考え、これを「プライマリー・コントロール」と呼びました。そして、それまで習慣として本能的にやってきたことを抑制し、プライマリー・コントロールが機能している状態に自分自身を方向付けていく必要があるのだということを彼の著書『自分の使い方(原題:Use of Self)』の中で述べています。

しかし、アレクサンダー自身も苦労したように、習慣というものは根強いもので、特に練習を積み重ねてきたものに対しては、「私がこれまでのあなたをつくりあげてきたんでしょ、力を貸してあげるよ」とばかりに強力に存在をアピールしてきます。ただ「今は君は出てこなくていいよ」と言ったくらいでは諦めてはくれません。

 

そこで、いったん「トランペットを吹く」ということから思考を離して、まずこのアレクサンダーの発見をもとに、「自分自身がどうあるのか」ということに思考を集中させてみました。

  • 自分の周りには前後左右上下、自由に動くことができる空間が存在している。
  • 頭が動けて、身体全体がついていって、背骨の一つ一つも、体中のあらゆる関節も自由に動ける状態にある。
  • 自分の体重の分だけ、地面からは垂直抗力をもらっていて、地面に立つための手伝いをしてくれている。
  • 息は肺から上に上がって、口の中のてっぺん(軟口蓋)にあたって、口から出ていく。それ以上先までコントロールすることはできない。

 

その上で、

 楽器を構えて、

 マウスピースと上唇を密着させて、

 普段呼吸する程度に息を吸って、

 吐いた時の息が唇を通るときに振動が生まれて、

 それが楽器に伝わることでトランペットの音になる

という流れを大切にしながら音を出してみたところ、無理なく、ごく自然に音を出すことができました。

 

これらのことから、「吹こう」「音を届けよう」という意識からなのか、自分の手元から離れていった音に対してまで責任感が強くはたらき、「吹きすぎる」という結果に結びついていたということが再確認できました。ですから、自分自身の在り方について注目し、自分の手元(足元)で起こっていることに集中することで、結果としてそれまで起きていた思わしくない習慣を抑制することができたのでした。

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ちなみに余談というか、オンラインレッスンの偶然の産物だったりもするのですが、イヤホンを付けて楽器を吹くと、耳からの音のフィードバックがなくなる分、自分の状態に目が向きやすく、習慣が目を覚ましにくいというおまけの発見もありました。本当にちょっとしたことで、自分にとって快適な環境をつくることもできるのだなと、改めて思いました。

 

 

3カ月のミュート練習で得たもの

ミュートでの練習しかできなかった3ヶ月間、つい調子に乗って吹きすぎてしまったり、これまでの習慣が心地よくてそちらに行ってしまいそうになったことも少なからずありましたが、上で書いたような「自分自身がどうあるのか」ということと、「トランペットの音はどうやってでているのか」という根本的な原理を大切に練習をするように心がけてみました。

もちろん、音域によっても、曲の内容によっても、ちょうどよいバランスは変わってきますから、その都度、自分にとって心地の良いバランスを探していく必要はあります。はじめはそのバランスが分からず、つい習慣に頼りたくなることもありました。

でも、ミュートを付けてでも練習を続けたいと思ったのは、ただ楽器が吹きたいという思いと、いつかやってくるまた自由に演奏できる日に、思い切り吹ける状態を作っておきたいという思いからです。思い切って、「ミュートを付けた状態で吹いているんだから、思い通りに聞こえてこなくて当たり前」くらいに思って練習してみると、少し冷静になることができました。

 

そして、7月になって部活が再開し、久しぶりに生徒と一緒にミュートを付けずに教室で思い切り楽器を吹くことができました。正直、最初は「また調子がおかしくなっていないだろうか?」と不安に思っていましたが、結果は真逆でした。

とにかく自分自身の在り方と、音が出る仕組みにこだわって練習を続けていたので、それまでよりも楽に、力任せにならずに、自然に音が出せるようになっていました。

恐らく、オープンで吹いているときには気づかなかったくらいのことであっても、ミュートを付けている状態だと、ちょっとでも力任せに吹いたり、これまでの習慣が顔を出すと、「それは危険です」サインとばかりに、めちゃくちゃに抵抗が強くなるので、それもよかったのかもしれません。

とにかく、また普通に楽器を吹くことができた喜びと同時に、学んできたことがこんなにも顕著に結果にも表れて、本当にうれしくなりました。まだまだ通常営業とはなかなかなりませんが、また思い切りオーケストラや吹奏楽で吹ける日を思って、練習を続けていこうと思います。

 

普段の生活の中でも、限られた空間の中で思考が狭まっていった時に、ふと自分自身が今どう在るのかということに目を向けてみて、やりたいと思うことをどうやっていくのか、自分が大切なもののためにどう動けるのかを考えてみると、気持ちが動いていけることもあるような気がします。

知らず知らずのうちに自分で自分にかけている制約が、自分が本来持っているはずの力を抑え込んでしまうことは、割と多いことなのだと思います。自分がどうしたいのか、どう在りたいのかと向き合うことで、可能性は広がるものだな、と…。

もちろん、これまでの習慣も、自分自身をつくってきてくれた大切なものです。それが決して”悪”であるわけではありません。でも「これからどうしていきたいか?」を考えたときに、その都度、自分にとってベストな選択をしていくことで、より自分にとって心地の良いものを生み出すことができたらなと思ったりします。

習慣は、繰り返し、繰り返し取り組んできた努力の賜物でもあります。だからこそ、自分を助けてくれることもあります。でも、そこだけに甘えてしまうのではなくて、常に自分を観察し、”今の”自分にとって何が必要かを考え、能動的に思考も身体も使っていくことで新しい習慣が生み出され、同時にいざというときに過去のいろいろな習慣が助けてくれることもあるのだろうなと思います。

生きている限り探究は続きます。それを楽しんで、焦らず、ゆっくりやっていけたらなと思います。

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