「強制力」をどのように利用していくか?

最近は誰かに何かを「強制する」というと、マイナスのイメージしかわかないようになってきました。もちろん、相手の意思を無視して、権力を振りかざして相手に物事を強制することは決して良いことではありません。

しかし、何かに「強制力」を持たせることは、必ずしも悪いことだけではないですし、プラスに働くこともあるように思います。

今日は「強制力」について、最近考えていることをつぶやいてみたいと思います。

 

強制的に連れて行った演奏会で・・・

私が顧問をしている部活でも、教えに来てくださっているコーチの先生方や卒業生の演奏会をはじめ、学校に届いた演奏会案内などは部室に掲示したり、ミーティングで一声かけるなどして、これまでもできるだけ足を運んでもらうようにしてきました。それをきっかけにして演奏会に足を運び、あこがれの演奏に出会って、練習のモチベーションを上げていったり、実際にプロの音楽家を目指すようになった生徒もいます。

しかし最近は、毎日こなさなければならない学習課題が増えたり、YouTubeなどで気軽に演奏を聴くことができたりすることもあってか、紹介しても演奏会に足を運ぼうとしない部員たちが残念ながら多くなってしまいました。部活が終わってから行われるような平日夜の演奏会はもちろんのこと、休日の昼公演であっても、部活が削減されている関係で活動日が少なく、部活の時間を使っていくこともなかなか難しい状態でした。

ようやく先日、陸上自衛隊の演奏会に部活の行事として全員連れていく機会がありました。会場が若干遠かったこともあり、行く前は気が重そうな生徒も多かったのですが、演奏が始まると席から身を乗り出して一生懸命に聴いている姿がありました。

演奏会の感想文には、次のような声がたくさん書かれていました。

  • 今回の演奏会で1番思ったのは「こんな音を自分も吹けるようになりたい!」ということ。あんな風にピッタリそろった演奏を自分たちもしたい。そう思った演奏だった。本当に聴きに来てよかった。
  • 演奏を聞いて一番に思ったことがあります。それは、今まで何で聴きに行こうとしなかったのだろう、ということです。客席はお客さんでいっぱいで、沢山の笑顔、うっとりとする顔が見えました。そして沢山の拍手は私をもっと驚かせました。全員が同じ気持ちで演奏者をたたえていたあの光景を私はまだ味わったことがなく、とても憧れました。私もあの大人数のお客さんに私たちの演奏を聞いてもらいたいし、大人数の拍手をもらいたいと思いました。

その後、また演奏会を聴きに行くチャンスがあったので、今度は強制参加ではなく、紹介だけして希望をとってみました。自分から行きたいと申し込んできた生徒が十数人。まだまだ少数ではありますが、今まで皆無に等しかった状態を考えれば大きな進歩です。

普段いくら「いっぱいいい演奏を聴いてほしい」と伝えていたとしても、実際に聴きに行くことでどんなに素晴らしい経験ができるのかに気づかなければ、なかなか時間をかけて遠くまで足を運ぼうとは思わないかもしれません。しかし、このようにきっかけさえつくれば、「もっと聴いてみたい」と思う気持ちも少しずつ育っていくのかなと改めて思いました。

 

強制的にやらされることも、一つの選択肢になる!

何をするにしても、自らやりたいことを選択し、能動的にやれることに越したことはありません。でも、一度は強制的にでも何かを経験してみることで選択肢は増やせるものです。選ぶかどうかは本人次第ですし、いつまでも強制ではいけませんが、多くの選択肢を示すことも学校の役割のような気がします。

生徒と面談をしていたりすると、「この科目を勉強する意味が分からない」という声を耳にします。特に自分が担当している理科は、小学校時代に苦手意識を持っている生徒も多いので、「なんでやらなきゃいけないの?」と言われることは多いです。授業担当としては、それでも少しでも興味を持ってもらえるように日常生活と結び付けてみたり、「できる」「わかる」経験を積み重ねられるように授業を工夫するのが仕事ではありますが、担任として生徒と関わる時には、「自分の可能性を広げたり、将来の選択肢を増やしていくことにもなるから、とりあえず一回は本気でやってみることも大事だよ」と声をかけることがあります。

必修科目を共通して学ぶということは、もちろんそれぞれの知識や技術、思考などがどこかで役立つこともあると思いますし、教養を身につけ、現代社会の複雑な問題を様々な視点から考えられるようになる素養を身につけていくことでもあります。しかし同時に、学んでいく中で自分の適性に気づいたり、やりたいと思えることを絞っていくためにも必要なことなのかなと個人的には思っています。

生きていく上で、自分の道は自分の手で選んでいくことは大事なことですし、誰にでも守られている権利であるべきだと思います。でも、選ぶための選択肢を知らなかったら、1本の道しか見えておらず、比較するものが見えていなかったら、「選ぶ」ことはできません。

はじめは強制されたことかもしれませんが、一度本気で挑戦してみることで、もしかしたら好きなことに変わっていくかもしれないですし、極力やりたくないことだと確信して別の道を探すきっかけになることもあるかもしれません。

そのように考えてみると、決して「強制する」ことは悪であることばかりではないようにも思います。

進路についても同じようなことが言えると思います。

早いうちにやりたいことが明確に絞れていたら、それに打ち込める環境に飛び込んでしまうのもありだと思います。やっていくうちに必要になる教養は後からいくらでも学ぶことができます。無理して全員が普通高校、一般大学に進学する必要もないと思います。

でも、なかなかやりたいことが見えない場合には、一見苦手なことも含め、幅広く挑戦してみてもいい気がします。本当の面白さは、結構本気でやってみて初めて気づくことも多い気がします。そして、その本気になる手前までのところを、強制されてやっていることも結構あったりするような気がします。

私たちがやっていることの中には、本当の面白さに気づく前にやめてしまっていることも多いように思います。見た目がマズそうなものでも、食べてみたら美味しいものもあります。食わず嫌いにならずに、ちょっと手を出してみる勇気を持つことも必要なことです。食べてみて、本当に嫌いだったら次はやめておけばいい話ですし、また時間をおいて怖いもの見たさで食べてみてもいいのです。一度強制的にやってみた後は、常に選択する権利は自分にある。それが大切なことなのかなと思います。

 

でも、いつまでも強制していてもいけない!

これまで、強制されることも決して悪いことではないじゃないかというトーンでつぶやいてきましたが、やはりいつまでも強制してばかりいては、生徒が「判断する」「選択する」という機会を奪ってしまうことにつながりますし、やらされている方もだんだん嫌気がさしてくるものです。

生徒に対しては「強制されていると感じることでも、一度は一生懸命やることも悪くない」と伝えながらも、子どもたちを育てていこうとする立場の大人としては、「どこまでは強制して、どこから子ども自身に選ばせるのか」ということを常に意識していなければなりません。

これまでの自分の少ない経験の中ではありますが、子どもの教育に熱心な人であればあるほど、

  • 子どもに張り付いて自分が良いと思うことをやらせる
  • 子どもが判断する前に、自分が判断してしまう
  • 子どもが試行錯誤しているときに、先回りして口を出す
  • いつまでも手取り足取りで、自分の管理下におこうとする

といった傾向があるように感じています。教員をしている人の中には特に多いように思いますし、自分も気が付くと「生徒に自分の考えを押し付けすぎだな」「生徒に手を差し伸べすぎだな」と反省することも多いです。

「強制すること」は、子どもたちに「知る」チャンスを与えることであるべきで、決して大人の思い通りにコントロールしようとすることではあってはいけません。

子どもたちにとっても、この一瞬一瞬は大事な時間です。もし何かを強制的にでもやらせるとするならば、その機会ができるだけ充実したものになるように準備を怠らないことも大事ですし、事後のフォローも大事になってくるものです。そうした準備やフォローがあってこそ、強制的にやらせたものが、「興味」「探究心」などにつながっていく気がします。

  • 何のために強制的にやらせるのか
  • どこで手を放し、子ども一人ひとりの選択に任せるのか

これらのことが明確にイメージできていて初めて、強制的に何かをやってみることが可能なのだと思います。

自分も、「強制すること」を上手に活用しながら、子どもたちにたくさんの選択肢を示せるように、そして子どもたちが自分自身の意思でやりたいことを選択していけるように、また頑張っていきたいなと思います。

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