「結果」にこだわることと、「過程」を大事にすることは共存できる

先日の『ブラック部活』報道に限らず、コンクールに関する様々な方のご意見や、オリンピックについての報道などを見ていて、改めて「結果を残すことの必要性」と「結果を残すためにどんな努力ができるか」ということについて考えさせられています。
一時期ほどではなくなったかとは思いますが、オリンピックとなるとその競技そのものではなく、どうしてもメダルの数に注目が集まるような気がします。もちろん選手たちは「オリンピックは参加することに意義がある」を越えて、4年間この舞台のために努力してきた結果を最大限発揮して「メダル」、特に「金メダル」というものに挑戦しているわけですから、その背中をみんなで押して応援することは決して悪いことではないと思います。
オリンピックは国際大会。それぞれの国ではトップクラスの選手たちが競い合う大会です。それに参加するだけでもものすごいことですし、その陰には出場できずに涙を呑んで国内に残っている選手たちが数え切れないほどいるものです。それだけに参加できなかった選手たちの想いも背負って勝ち抜こうとする姿は素敵なことだなとも思います。
それだけに、「メダルをとれなくて申し訳ない」と謝っている選手の姿を見ると、なんだかこっちも申し訳ない気持ちになったりします。想像もできないようなプレッシャーの中、壮絶な練習を積み重ねて本番の舞台に立ち、メダルを目指して頑張っている選手が、思うように結果を残せなかったら「悔しい」という言葉だけでは表せないほどの想いがあふれてくると思いますし、それに対して「メダルとれないなんて何やってんだ!」とは私は思いません。
でも、実際には「金メダルとれなきゃ意味がない!」「どんな顔して日本に帰ってくるつもりだ!」という意見も、以前は少なからずあったように思います。自分が頑張っているわけでもないのに、なぜこのようなことが言えてしまうのだろうと思ったりもしましたが、どこか「結果が悪かったら認めんぞ!」という空気を強く感じることもあります。
これは吹奏楽コンクールについても言えることです。
確かに、コンクールは点数がつき、他校との比較による相対評価で賞が決まります。金賞を目標にして自分たちの技術や表現を磨き、必死に練習を重ねて大会に臨むという点では、オリンピックなどのスポーツの大会と基本的な部分は変わらない部分もあるのかもしれません。
それだけに、「金賞バンドが価値あるバンド」「金賞バンドの指導者は優れている」という構図も容易に出来上がりやすい気がします。もちろん、金賞をとれるバンドはそれだけ丁寧な練習を重ねてきたと思いますし、それを指導された先生は様々に学びながら全身全霊をかけて指導をされている方がほとんどだと思いますので、否定はしません。
ただ、「銀賞バンド」「銅賞バンド」は価値がないのかといえば、それもまた違うと思います。
フルート奏者の羽鳥美紗紀さんが次のようなツイートをされていました。


賞という結果に結び付かなかったとしても、真摯に音楽と向き合っていけば、誰かの心をつかむこともできるのだと思います。
さすがに、コンクールに出場するのに全然練習せずに、その場のノリだけで出場してくる学校はないと思います。コンクールに向かう時にはそれぞれそのバンドなりに努力したり、工夫したり、何とか少しでもよい結果に結び付けようとしているはずです。技術的に未熟なところがあっても、音楽をする喜びにあふれた演奏もあると思います。そこまでも否定してしまっては、そこにいる生徒たちの頑張りを否定してしまうことになりますし、少しでも成長したことさえも認めないということになってしまいます。
確かに金賞に届かなかったり、上位大会に進めなかったら、他校と比べて何か足りないところがあったり、もっと工夫できるところがあるのだと思います。それに気づくことも成長のためには大事なことです。
しかし大切なのは、賞という結果も受け止めつつ、「自分たちのやろうとした音楽が、奏でたい音楽にどれだけ近づけたか」という結果について考えることではないでしょうか。もっと自分たちにできることを見つけて、それを次につなげようとまた意識して練習に向かうことができれば、必ず生徒たちは成長できるものです。賞という結果にだけ左右されるのではなく、自分たちの取り組みやその結果どんな演奏ができたかというところを冷静に振り返ることは大事なことです。
あとはそこに指導者がどのように道筋をつくり、生徒たちの力を発揮できる環境を整えていけるかなのだと思いますが、決して「自分たちはダメなんだ」と思わせてしまってはいけない気がします。
このところ投稿していた『クローズアップ現代』の放送についてのブログ記事をお読みになった方々から、「厳しく叱られなければ気づけないこともある」「辛い思いをしたからこそ頑張れる子もいる」という意見を頂きました。確かにそういう面もあると思うし、そこに信念を持って指導されている先生方を否定するつもりもありません。でも自分は甘いと思われても、暴言・暴力・威圧による指導はしない。そこは変えないつもりです。
それでも「賞」という結果を出さなかったら、「甘くしてるから結果につながないのだ」と思われるかもしれません。「どんな手を使ってでも結果を出すように指導すべき」という方もいらっしゃるかもしれません。「生徒と本気で向き合うのが怖いのではないか」「ただ生徒に嫌われたくないだけなのではないか」というご意見をいただくこともあります。中高生の中にも「先生が厳しくぶつかってきてくれたお陰で頑張れた」という意見を言う子も見かけますし、極端な話、「指導者が独裁者となってすべきことを決め、その通りに生徒を動かしていく」という方が受け入れられたりするのかなと思うこともあります。
確かに最初から放置してしまっては「やりたいことをやるための方法」も分からないでしょうし、そもそも「やりたいことをどう見つけるのか」というところも分からないかもしれません。楽器を始めたばかりの小中学生バンドなどでは、ある程度指導者が舵取りをして進めていった方が上手くいく側面はあるように思います。
でも、やはり音楽は能動的につくられていくものだし、誰かにやらされるものではないはずです。やり方を教えることと、やり方を強制することは似て非なるものだと思います。
【過去記事】
「怖いから、やる」には限界がある!
http://rapparapa.at.webry.info/201606/article_12.html
生徒にとって中高時代は一度きり。だからこそそこでかけがえのない経験ができるように力を尽くすのが指導者の仕事。そして生涯に渡って音楽がパートナーとなれるようなきっかけにできたら幸せなことです。それは共存できるはすです。
ホルン奏者でアレクサンダーテクニークを一緒に勉強しているごんざゆういちさんが、次のようなツイートをされていました。


コンクールも吹奏楽部も全て悪なわけではありません。コンクールは一つの曲を細かいところまで追究して、みんなで試行錯誤しながら自分達にできる精一杯の音楽をつくるいい機会ですし、それがあるから音楽の奥深さに触れることができることもあります。
それを体験させようと、それぞれの先生方が必死に指導されているのだと思います。その生徒たちの頑張り、先生方の頑張りが相乗効果となって、この夏、コンクールを通して成長した人も多いはずです。結果を目指すからこそ、過程が充実する。過程が充実しているからこそ、結果に結びつく。要はやり方、取り組ませ方、考え方なのだと思います。
また、クラリネット・サックス奏者のMASAさんが次のようなツイートをされていました。


ここにあるように、「出来ることをしなかった」のか「(挑戦したけれど)出来なかった」のかを見極めることも指導力のうちだと思います。 その上でどうアプローチをするのが目の前の生徒にとってベターなのか、いつも考えていくことも必要です。
難しいのは、指導者が生徒に期待するあまり「出来るはずなのに、何でできない(→しない)のだ!」となって感情的になってしまうこと。これがプラスになる場面もあるのかもしれませんが、実際にはマイナスになる場面も多い気がします。生徒にぶつける前に、自分の伝え方を考えてみる。それで改善することもありそうです。
【過去記事】
否定形で問い詰めるのではなく、肯定形で気持ちを引き出してみる
http://rapparapa.at.webry.info/201606/article_1.html
指導の仕方はいろいろあるかと思いますが、本気で生徒や音楽と向き合おうとしている先生が殆どだと思います。結果を少しでもよくして、生徒たちが自分たちが奏でる音楽に自信を持っていけるように、その過程を必死に考え、取り組まれている先生の姿を見ていると、「結果」にこだわることと、「過程」を大事にすることは共存できることなのかなと思います。
ともすると、コンクールに取り組む「過程」は、ピッチやタテなどの要素を合わせることだけに走りがちです。もちろんそれも音楽を表現するときに大事な要素ではありますが、目的はあくまで「より説得力のある音楽を奏でるために、細かい要素を合わせる必要がある」であって、「細かい要素を合わせるために、音楽を奏でる」ことではありません。
このように、端から見たら同じことをしているように思えても、目的がどうなっているかによって、その「過程」が持つ意味は変わってくると思います。
【過去記事】
コンクールの講評を奥深く読んで、金賞を目指す! ~すべては音楽からはじまる~
http://s.webry.info/sp/rapparapa.at.webry.info/201607/article_3.html
偉そうなことばかり言っていますが、自分もまだまだです。また頑張ります。

iQiPlus

「結果」にこだわることと、「過程」を大事にすることは共存できる” への2件のコメント

  1. 通りすがりですが失礼します。
    コンクールに限らず、学生の部活についてって、主観と客観どちらの観点も持っていないといけないと思います。
    確かに、コンクールに向けて仲間と一緒に精一杯頑張ること、それは結果がどうあれ、かけがえのない価値ことだと思います。言い換えれば主観的な側面図から見れば、はコンクールに向けて精一杯頑張ることができいれば、もうそれだけでも、素晴らしいことですよね。
    でも、客観的に学生が頑張ったとかの付加価値を除いて考えたらどうでしょう?
    全国大会で良い結果を残した演奏であっても、純粋に音楽的な価値のある演奏ってほとんどないですよね。はっきり言って縦と横があっているだけの演奏ばかりなのが現実じゃないですか?
    でもそれって学生のせいではないですよね?
    精一杯努力した成果なので、それだけで価値のあることです。
    でも、それが音楽的に評価されないことになっているのは、それはもう吹奏楽に関わる大人の責任なんだと思います。
    細かいミスでも減点される採点方法もそうですが、音楽的な演奏を示せないプロの吹奏楽団にも問題があると思います。
    学生が精一杯頑張っていること、それは無条件に素晴らしいことです。でも、それに頼りきって、客観的な評価をしないこと、そして評価基準が歪なこと全てを隠してはいけないと強く思います。
    子供にとって価値のあることを大人が利用してはいけない。本当の意味で「結果」について正当な評価を下してあげること、それが本当の意味で「過程」を評価する事になるのだと信じています。
    とりあえず、1000点満点での評価をやめて10点満点に変えるだけでも変われると思います。
    偉そうに語りましたが、今の吹奏楽コンクールの評価は、可哀想としか想えないおじさん愛好家でした。

  2. >大人と子供さま
    コメントありがとうございます!
    そうですね、子どもたちに否はありませんし、そこに関わる大人がどう責任を持って育てていくかが問われている気がします。子どもと関わる身として、肝に銘じていたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。