「吹奏楽部」をやりたいのか、「吹奏楽」をやりたいのか??

ネット上の意見を見ていると、「吹奏楽」の文化は特殊であり、「吹奏楽」とは別に扱って考えた方がよいのではないかという意見をしばしば目にします。確かに「部活動」としての吹奏楽と、「音楽の形態」としての吹奏楽は違いがあるかもしれません。しかし、多くの場合「吹奏楽部」を区別して論議する場合、そのやり方に否定的なことが多いような気がします。分からなくもないのですが、自分が今、吹奏楽部の顧問をしている身として感じていることを今日はつぶやいていこうかとおもいます。
「吹奏楽部」を「吹奏楽」と区別して考える場合、前者は「体育会系で音楽的ではない」、後者は「音楽を大切にするやり方」として用いられることが多いように思います。
もちろん吹奏楽部は音楽をやる部活。できれば音楽が先にあって、音楽を追究していく中で一人ひとりが必要なことに気づき、結果として集団としてのまとまりもできていくのが自分の中では理想です。
しかし一方で、「部活動」である以上、教育活動の一環であることには変わりありません。教科指導においても、クラス経営や生活指導とのリンクが大切だと言われているように、部活動においても音楽的な指導だけでなく、生活指導的な面を大切にしようという気持ちは分からなくはありません。
先日放送されていたテレビドラマ『仰げば尊し』の中でも、
「靴を揃えられなくて音が揃うはずがない」
「学校に誠意を見せるためにも、ゴミ拾いをしよう」

というシーンが取り上げられていました。
確かにこれらのことは音楽活動とは直接は関係ありませんし、靴を揃えたり、ゴミ拾いをしたところで音楽的に成長するかといえば、そうとは限らないと思います。しかしそれでも、「校内清掃」「挨拶・返事」など生活指導的な面を重視することで集団としての意識を高め、音楽的な面でも成果を出している学校も少なくありません。それだけに、上手くいっている学校の例をとりあげて、生活指導を重視して取り組んでいる学校も多いように思います。
もちろん、生活指導をしっかりすることは悪いことではありません。しかし、そればかりに頼ってしまうと、根性論に偏り、音楽の本質を見失った活動になってしまうことも残念ながらあります。特に音楽を専門としていない教員が顧問の場合、専門的な指導ができないがために、生活指導を冠とした根性論に走ってしまうことが少なくないようにも思います。このように生活指導に偏ってしまったり、根性論に頼って具体的な音楽指導が行われていない状態の部活である場合、いわゆる「吹奏楽」をしたいのではなく、「吹奏楽」をしたい学校と受け取られるのだと思います。自分自身、音楽が専門ではない教員なので、ともすると根性論に走りがちだったこともあります。でもそれは一時的に効果のあるものだったとしても、将来にわたって音楽を愛し続けるためには逆効果になってしまうこともあると、ここ数年思うようになりました。
教員の中にも「吹奏楽」がしたい顧問と、「吹奏楽」がしたい顧問がいるように、「吹奏楽」がしたい生徒と、「吹奏楽」がしたい生徒もいて、それが部員同士がぶつかる原因になることもあるような気がします。もちろん顧問の影響も大きいかもしれませんが、生徒の中にもいろいろな感じ方があり、趣向があるように思います。
テレビドラマ『仰げば尊し』や映画『青空エール』の反応を見ていると、中高生が「吹奏楽」がしたいと思うのは自然なことかもしれません。青春時代は一度きり。あの甘酸っぱく、熱い気持ちを抱えることに憧れを抱くのはおかしいことではありません。思い返してみると、自分もそうだったかなと思うところはあります。若いうちに何かに必死に打ち込むことは決して悪いことではないですし、その中から自分にとって大切なものを見つけていくこともあると思います。部活が一つのきっかけとなって、音楽や楽器が好きでいる子どもたちが増えていったら、それはとても嬉しいことです。
ただ一つ思うのは、大人が青春時代に思いを馳せて、中高生の部活に乗っかってしまうことが危険なこともあるということです。部活の主役はあくまで生徒。大人はどこか冷静な面も持ち合わせている必要があります。音楽や生徒と真剣に向き合うことと、ただ熱くなることは異なることだと思うし、中高生の純粋な思いを大人が利用して名声を上げたり、自分たちの欲求を満たすために子どもたちを使い捨てにしていくことは断じてあってはならないことです。
子どもたちが「吹奏楽」をやりたいのは分かるし、それが音楽や楽器が好きになるきっかけになっているところもあります。それは素敵なことです。だからこそ、関わっていく大人は「吹奏楽」と本気で向き合う楽しさを伝えられたらと思います。教育的効果を狙って「部活動」というものを押し付けてしまうのではなく、純粋に音楽と向き合っていく中で子どもたちが育っていってくれたら、よほど教育的だと思います。
「音楽を追究していくことで部活という集団がまとまっていく」というアプローチをする指導者もいれば、「生活指導をきちんとして集団づくりをすることが良い音楽につながる」というアプローチをする指導者もいます。またその中間の考え方もあります。できたら前者で行けたらなとも思いますが、「どれが良いか」という話でもない気がします。大事なのは、方法論にこだわりすぎて、目の前の生徒たちが置いていかれてしまわないようにすることです。
たくさんの人が集まってやる部活だからこそ、感じ方も考え方もそれぞれ違うもの。誰かが少し強引にでも方向性を定めて、型にはめていった方がうまくいくかもしれません。もちろん目標は共有する必要もあります。でも、どこかに押し付けがあるうちは本当の音楽にはならない気もします。
私は正直なところ、「吹奏楽」がやりたいところもあります。それは、ただ青春したいわけでもなく、根性論を突き通したいわけでもありません。さまざまな一般バンドやオーケストラを経験し、やはり部活動でしかできない吹奏楽があるようにも思いますし、それが将来の音楽活動の土台になることは間違いないとも思うからです。毎日顔を合わせ、ぶつかり合いながら、自分たちにしかできない音楽を求めて切磋琢磨できる関係を築けるからこそ楽しむことのできる吹奏楽が、吹奏楽部にはあると思います。
だから、どんなに忙しくても、つらいときがあっても、吹奏楽部の顧問は辞められません。自分に音楽の楽しさ、真剣に取り組むことの面白さを教えてくれたのはやっぱり吹奏楽部なのです。子どもたちにも、そうした思いで吹奏楽部でしか過ごせない時間を過ごしてもらいたいと思うし、そのために自分ができることを考えて、これからも頑張っていこうと思います。

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