「怖いから、やる」には限界がある!

いつも偉そうなことをつぶやいていはいますが、若い頃は私も生徒のことを追い込んでやらせたり、怒鳴りつけ、強制的に言うことを聞かせようとしたりすることも結構ありました。今はちょっとした一言が嫌味に聞こえることもあるようですが、声を荒げたり、理不尽に怒ることはほとんどないかと思います。今でもそういう場面が必要だと思うことが全くないわけではありませんが、その必要性を感じていないというのが大きいかもしれません。
そのせいか、授業中に内職をしている生徒や、予習・宿題をしてこない生徒を注意したりすると、次のように言われることがあります。

「だって、○○(の教科)をやらないと怖いんだもん!」

舐められたもんだな、と正直イラッとすることもあるのですが、では自分も生徒を怖がらせて、無理にでもやらせるのかと思うと、どうしてもその気持ちになることはできません。こんなことを言うと、「生徒のことを本当に思っていたら、生徒に嫌がられてでもやらせるように仕向けるべきだ」とか「先生はただ生徒に嫌われたくないだけなのではないか」と言われることもあります。でも私は、「怖がらせてやらせる」ということにはどうしても抵抗がありますし、それでやらせたり、できるようになったことがあったとしても、長い目で見たら子どもたちのためになることをしているのだろうかと疑問に感じます。
「怖いからやる」というのは、即効性はあるだろうし、教える方は満足こともあるかもしれません。もしかしたら、目の前にある知識や技術を身につけさせるためには効果的な方法かもしれません。でも「やろう」という気持ちは長続きしないし、なぜそれをやるのか意味が分かっていなければそのしのぎに終わってしまいます。結局、教わる側に残るのは恐怖の記憶だけのような気もします。もちろんそれがきっかけで面白さを見つけたり、頑張って実力を磨ける人もいるかと思いますが、全員そうとは限りませんし、逆にその恐怖感が元で、その物事を嫌いになってしまうことも大いにあり得る話です。
本気でやればできるようになるだろうに、なかなか真剣になれない子(=YDKとでも言うのでしょうか)を見ると、教師としてはどうにかしてやらせたい、できるようにさせたいと思うのは当然のことだと思います。でも、そこで恐怖を味わせてまで無理にやらせるのか、時間はかかっても自分の意志でやり始めるのを待つのか。その違いは大きいように思います。
確かにコンクールや受験のように期限があって、それまでに間に合わせる必要があるというプレッシャーの中では、どんなに無理をさせてでもやらせることが生徒のためだと考えることもあるのかもしれません。でも、教育というのは本来コンクールや受験のためだけではなく、将来にわたって発揮していくことができる力をじっくり育てていくのが本来の目的のようにも思います。そのための一つの身近な目標としてコンクールや受験があり、そのステップを利用していくのは良いことだと思いますが、それがすべてになってしまうような教育は、どこか歪んでいるような気がします。
結果をすぐに出そうとすると、心に焦りが生じるものです。自分が一生懸命やっているのにうまくいかないと、相手にイライラすることもあると思います。自分が信念を持って伝えたいと思うことが伝わらないと悔しさもこみあげてくるかもしれません。でも、相手の意思や思考をコントロールすることはできません。真剣になればなるほど矛盾が出てくると思いますが、諦めずにはたらきかけ続けること、信念を貫くことが指導者にできることのように思います。
世の中は厳しいものです。人を育てるのは過程が大切かもしれないけれど、すべては結果で判断されることの方が多いような気もします。自分なりに頑張ってやっていたとしても、結果が伴っていなければ、やっていないことと同類にされてしまうこともあります。でもそれはあくまで他人の評価。自分が納得するまで追究していくことは大切ですが、それは他人に評価されるためではなく、自分自身のためであるべきのような気もします。結果だけに固執することなく、時間はかかっても自分が納得できるものを見つけ、貫いていけるように、その過程を支えていくことも指導者の役割だと思います。
散々生徒を追い詰めて泣かせて、それでもついてくる生徒がいて、それが結果につながるというストーリーを美化してしまうのはどうかなと思います。真剣に取り組んでいたら悔し涙を流すことはあるでしょうし、それを乗り越えて大きく成長することもあると思いますが、それを教師がわざと引き出して、悔しさを煽ってやらせるのはどこか違うような気もします。私は悔しさを煽るくらいなら、楽しさを煽って、もっと頑張らせたいと思います。本来、人間は楽しいと思ったり、好きだと思ったりしたことに熱中して、とことんまで頑張る能力をもっているはずですから。
だからこそ、どうすれば生徒ができるようになるのか、常に具体的なアイディアを持つように努力することも必要なことです。生徒ができないことがあったら、「どうすればできるようになるのか?」と考え、その方法を具体的に伝えるのも指導者の仕事です。それもせずに生徒ができるようにならないのは生徒の責任、生徒ができるようになるのは教師の手柄みたいになってしまうと、教師と生徒の関係に歪みが生じますし、教師が本来すべき仕事を忘れてしまうことにつながる気がします。根性論ではなく、生徒一人ひとりに応じた具体的なアイディアの提供。それが指導者に求められていると思います。
「怖いから、やる」
ではなくて、

「やりやいから、やる」

という気持ちで物事に取り組むことが、大きな目で見たら大きな成長につながるはずです。
すべてのことが「やりたいから、やる」にはならないかもしれませんが、せめて自分で選んで入った部活だったり、好きで続けているはずの音楽であるならば、「やりたいから、やる」が動機であって欲しいなと思うし、自分もその気持ちを育てられるような活動をしていきたいと思います。
そして、その気持ちが原動力となって、子どもたちが心から真剣に音楽と向き合い、かけがえのない時間を過ごし、素敵な音楽をつくっていってくれることを信じています。
自分も頑張ります。

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