幸せな生き方のレールは自分で敷いていくもの

先日「小学生の8割 いい大学に入れば幸せ」という見出しの記事を読みました。きっと親など身近な大人が小さい頃からそうやって刷り込んでいる面はあるのだろうなと思いつつ、「いい大学」「一流企業」と呼ばれるところに入ることが人生のゴールのように見えて、少し寂しい気分になりました。
ちょうど今の小学生の親世代は私と同じか少し上くらいの年代、いわゆる「就職氷河期」と呼ばれた頃に就職活動を経験した世代です。それだけに、子どもたちには就職のことで同じような苦労をさせたくないと思う気持ちはとてもよく分かります。
また確かにいわゆる「難関大学」と呼ばれる大学は教授陣もお金も設備も充実していることが一般的には多いといわれていますし、学生もそれなりの勉強をして熾烈な入試をくぐり抜けてきた人が多いと思いますので、受ける刺激は大きいかもしれません。
でも、それだけが幸せなことなのでしょうか。
人が進む道は一人ひとりそれぞれだと思います。そして、人が幸せを感じる時というのもそれぞれだと思います。結果的に「いい大学」「一流企業」に入ることを幸せに感じる人もいると思いますし、それ自体は否定しません。ただ、もっと大切なのは「その後でどう生きるか」ということだと思います。
「いい大学」「一流企業」に入ることだけを目指していた子どもが、もし希望通りの進路を切り開くことができなかったとしたら、どうなるでしょう。もちろん気持ちを切り替えて頑張れる子もいると思いますが、多くの場合は挫折感、劣等感を感じ、なかなか自分のすることに自信を持てなくなるようになると思います。
反対に、希望通りの進路を叶えることができた子どもであっても、もしそれがゴールになってしまっていて、その先に自分のやりたいことが見えてこなかったり、ふとしたことでレールから外れてしまったときに、虚無感を感じて生きる希望をなくしてしまうこともあるかもしれません。
このように、「決められた理想のレール」に上手くはまっていないと不安になったり、自己否定に入ってしまうことも少なくないように思います。
本当に幸せな生き方というのは、本当に好きなもの、やりたいことを見つけて、それを生き甲斐にして楽しみながら生きることなのかなと最近考えています。もしかしたら本当にやりたいものに出会うまでには遠回りをするかもしれないですし、失敗もするかもしれません。
確かに、目の前にある自分にとって好ましくない状況というのは、自分自身がつくりだしてしまった面もあれば、自分の力ではどうしようもないこともあります。
しかし、そこで自分を取り巻く環境を不幸だと思って、愚痴や文句を言っているだけでは、いつまでもその状況から抜け出せなくなってしまいます。
どんな環境におかれたとしても、自分自身の信念さえ曲げなければ、プラスに変えていくことはできるはずです。「いい大学」「一流企業」だけが自分にとっていい環境だとは限りません。今おかれている環境の中でどう自分らしく生きることができるかを考え、実行していく中で自分にしか歩めない人生を切り開いていくことができるような気がします。
生きている限り、思い通りにいかないことはたくさんあると思います。そんな時に、思い通りにいかないことに腹をたてたり、自分の力不足を呪うのではなくて、どうすればその思いが叶うのかを考えることが大切なのだと思います。
音楽をやる上でも同じだと思います。「強豪校」と呼ばれる吹奏楽部にいなくても、上達することはできるし、音楽を楽しむこともできます。環境のせいにして、愚痴や文句を言っていたところで、楽器が上手くなることはありませんし、音楽を心から楽しむことはできません。
(もちろんそこがスパルタ吹奏楽の温床だったりして、どうしても楽しむことができない環境だということは残念ながらあると思いますし、その状態でも環境のせいにしてはいけないとは思いませんが。)
環境のせいにしてやらないよりも、自分が楽しく生きるには自分の思考をどう持てば良いのか考えて実行してみた方が、きっと充実した時間を送れるような気がします。
自分自身、まだ心残りで諦めきれないことや、自分の思うようにいかないことはたくさんあります。劣等感を感じることもあれば、当たり前だと思っていたことがもろくも崩れ去っていき、自信をなくすこともあります。でも、それでも自分にできることを探して、実行できる自分でありたいと思うし、何より生徒たちの希望を支えていくためにできることを探して行動できるかが、今の自分には問われているように思います。
ゆっくり自分の道を歩いていこうと思います。

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