「もっと吹かなきゃ」という思いとどう向き合うか?

アレクサンダーテクニークのレッスンに通い始めて6年、トランペットのレッスンを再開して5年半が経とうとしています。学びを重ねていけば行くほど、新しい気づきがあったり、できるようになったことが増えていく半面、まだまだだなぁと思うことも増えるし、これまでに培ってきた根深い自分の習慣が邪魔をしてくることもあります。

レッスンでせっかくできるようになったことでも、持ち帰って自分で練習をしている時や、合奏の中で吹いている時に、特に「邪魔になってしまっているな」と感じることが多いのが、“「もっと吹かなきゃ」という思い” です。

今日は、その思いとじっくり向き合ってみたいと思います。

 

「もっと吹かなきゃ」がもたらすもの

「もっと吹かなきゃ」という気持ちをもつことは決してダメなことではないと思います。ただやみくもに吹いてばかりいても上達できないとは思いますが、頭でっかちになって実際に楽器を吹くという練習をしなかったら、やっぱり上達できないものです。「もっと上手くなりたい。だからもっと吹かなきゃ」と思う気持ちは向上心の現れですし、決して悪いことではないと思います。

しかし自分の場合は、そう思うことで成長できたことがたくさんある反面、そう思い過ぎることで過度に自分にプレッシャーをかけたり、必要以上に力んで吹き込んでしまったりということが繰り返されてきました。

 

自分がこのように「吹きたい」「吹かなきゃ」と”思い過ぎる”ようになった要因は、もともとの自分の完璧主義気質もあると思いますが、その他にもいくつか原因がありそうです。

一つは、小中学校の時に、トランペットの人数が少なくて「自分がリードしなくては」という思いでいつもやっていたことです。今思うと、もう少し合奏としてのバランスも考えた上で他の楽器に任せればよかったところもあると思いますが、「自分が吹かなかったらメロディがなくなってしまう」と思って、本当に力任せに息を吹き込んで大きな音を出して頑張っていた気がします。その結果、すぐにバテるし、ここぞというところで音が出なくなったり、悔しい思いもたくさん思ってきました。

でもその当時は、「口輪筋と腹筋を鍛えればバテなくなる」と本気で信じていたので、練習の後でバテバテでも無理して吹き続けてみたり、腹筋運動を毎日してみたり、音が出なくなっても力業で何とかしようとしていました。当然のことながら、そのようなやり方では調子を崩すことも多く、「何でこんなに吹いているのに上手くなれないんだろう」と思っていました。このような繰り返しの中で、とにかく「吹かなきゃ」という気持ちは増幅されていったと思います。

 

二つ目は、高校生になって「きれいな音で吹きたい」と思うようになり、(今思うと)ツボに当たらない音で吹いていた結果、合奏でいつも「聞こえない、もっと吹け!」と言われるようになったことがあげられます。

これについては、今、自分が生徒たちに対してそう言ってしまっていないかと思うこともあります。ツボに当たっている音であれば、そんなに息を吹き込まなくても四方八方にしっかり響いてくれます。しかし、ツボに当たっていない音は近くで聴くときれいに聞こえていても、ホールでは通らないものです。その状態で「聴こえない!」と言われて、「もっと吹かなきゃ」とより息を吹き込んでも、容易に聞こえるようになるものではありません。

「あんなに頑張って吹いたのに、録音したら全然聞こえていなかった」と何度思ったことでしょうか。でも、今振り返ると、息を吹き込むことは頑張っていたけれど、「ツボに当たった音で吹く」ことを探究することは頑張れていなかったなと思います。結局、なかなか原因にたどりつけなかったことで「聴こえないから、もっと思い切り吹かなきゃ」と思う気持ちはどんどん増幅されていきました。

 

このように「吹かなきゃ」という気持ちを持つことが日常になっていた私ですので、今でも楽器を持つと「腹直筋に力を入れるスイッチ」と「息をいっぱい吹き込まなければいけないスイッチ」がONになるという習慣があります。

ただ、この2つのスイッチは自分にとっては麻薬みたいなものなのです。なぜなら、このスイッチが入ると「自分は頑張っている感」が得られるからです。

ただの自己満足に終わってしまうことも多いこの「自分は頑張っている感」ですが、これを感じている間はアドレナリンがガンガン出ている感じで、気分はよいものです。この気持ちよさに、このスイッチをOFFにした方が自然に演奏できると分かっていても、ついONにする習慣を手放せなくなっていることも多いような気もします。

しかし、結果としてもたらされるものは、「やっぱり思ったように吹けなかった」という後悔と自己否定の時間です。

「奏でたい音楽を奏でたい」という本来の望みが、目の前の麻薬によって台無しになってしまうのは、本当にもったいないことです。

抜け出せるかは自分の意識次第。そんなところも、麻薬と似ているような気がします。

 

「自然に奏でる」とはどういうことか

では、「吹かなきゃ」という気持ちで演奏するのではなく、自然に奏でて、やりたい音楽を表現するには、どのような意識で向き合っていけばよいのでしょうか。

トランペットのレッスンでも、アレクサンダーテクニークのレッスンでも、「どんな風に奏でたいですか?」と先生に聞かれて、音楽に集中していくと、結果として「吹かなきゃスイッチ」がOFFになって、自由に演奏できるようになることが多いような気がしています。

そもそも、金管楽器の音が出る原理なんて「お、筒に息吹き込んでみたら大きな音が出たぞ」くらいの感じで昔の人が発見したのだろうから、からだの力の限りを使って全力で息を吹き込まなくても、元々省エネで音は出せるものなのだと思います。

2枚の紙を重ね合わせて、その間に息を入れてみると紙が震えて音が出ます。金管楽器も、木管のリード楽器も音が出る原理としてはこれと同じです。

この時、2枚の紙の間に息が入る余裕がないくらいピンと引っ張っていたら音は出ませんし、逆にたるませ過ぎていて2枚の紙が触れあわなかったら音は出ません。また、強く息を吹き込みすぎても上手くいきません。要は適切なセッティングや息のバランスがとれていることが音の出る条件となります。

それを「吹かなきゃ」と思うばかりに余計な力を入れることでできなくなってしまうことはたくさんあります。

そのように考えると、何でも本来の原理原則に立ち返ることは大事だなと思います。

自然に音が鳴っている段階でわざと、口先、舌、喉、鎖骨あたり、腹直筋などにそれぞれ思い切り力を入れてみると、それらの力が必要でないことに気づかされることがあります。アレクサンダー・テクニークのレッスンでも、”逆アレクサンダー”と称して実験することがありますが、先日トランペットのレッスンでも一つ一つ段階を追ってやってみることで改めて実感することができました。

だからといって不必要なことをやめよう、「脱力しよう」と思うと、逆にその部分に意識がいって力が余計に入ってしまいドツボにはまってしまうこともあります。だからこそ「今奏でる音楽のために必要か不必要か」を考え、必要なものをとにかく意識し続け、自分の意思で「使おう」と選びとって、必要なものを選択的に使っていけたらいいのだと思います。

とはいえ、長年根付いた習慣は、ちょっと気を緩めるだけで隙あらば顔を表します。もし本当にその習慣をいったんしまっておいて、新しい習慣を身につけようと思ったら、かなり強い意思をもって、自分自身に指示を出していく必要があります。

自分の場合だったら、楽器を構える前に、「何をしたいんだっけ?」と問いかけて、そのために必要なことを1回1回焦らずに思い出してから音を出すということを根気強く続けていくことなのかなと今思っているところです。

具体的には、

  1. これから奏でたい音楽をできるだけ具体的にイメージする。
  2. 腕の可動域はかなり広いことを思い出す。
  3. 頭が動けて、体全体がついてきながら、マウスピースが上唇にやってくる。
  4. 下顎は自由に動けることを確認する。
  5. 頭の中にある音楽のイメージを強く持って、楽器に息を通すことで歌う。→結果として下唇がマウスピースの中に入って上唇とアパチュアをつくり、そこを息が通ることで振動が生まれ、音が出る

という一連の流れを、新しい習慣として身に付けていくことを今は意識するようにしています。

 

練習に根気はいるけれど、音楽に根性はいらない

トランペットのレッスンでも、アレクサンダー・テクニークのレッスンでも、レッスンを受けたあとで必ず感じることは、自分が楽器を吹く目的は「奏でたい音楽を奏でる」というところにあるのだということです。

そのイメージを明確にするために、たくさんの音楽を聴いたり、レッスンで学んだり、楽語を調べたり、いろんなところへ出かけたり、いろんな人と出会ったりすることも大事なことです。30代の半ばまではそれをただ何となく意識もせずにやってきましたが、今は本当にそれが大事なことだなと思いますし、ようやく少しずつ目的をもって行動するための一歩を踏み出したところかなというところです。

先日、母校の大学のメサイア演奏会を聴きに行く機会がありました。ヘンデル作曲のキリストの生涯を描いたオラトリオ『メサイア』には、トランペットに有名なソロ(実際にはバスのアリアとの掛け合い)があります。歌詞からして”The trumpet shall sound~” と繰り返し歌われますし、聖書の意味を考えても「最後のラッパが鳴ると、死者が甦って永遠の命が与えられる」という、ラッパが鳴らなかったらキリスト教成り立たんじゃん!というプレッシャーのかかる曲で、私も大学4年の時に演奏しましたが、思うように吹ききれなかった若干トラウマの残る曲です。

今年そのソロを吹いた4年生は、今までも何を吹いても歌心があっていいなぁと密かに思っていたのですが、今回もちょっと苦しそうなところはありつつも、最後まで歌心を忘れずに、「こう吹きたいんだ」というメッセージがしっかり伝わってきて、終始のひのびとした素敵な音で奏でてところがさすが!と感じる演奏をしていました。

やっぱり歌心のある演奏は心に響くなぁと。

今の若い人たちは本当に自然に吹くし、のびのびやりたい音楽をやろうとする人が多いので勉強になります。でもそれだけ、ただ根性論でやれという教育ではなくて、一人ひとりが考えて演奏したり、楽器本来の響きを大切に音楽づくりをしていく教育が浸透してきている証拠なのかもしれません。

練習に根気はいるけれど、音楽に根性はいらない。

そんなことを感じつつ、想像力と創造力を大切に練習していきたいですし、自分自身も子どもたちと関わっていきたいと思います。

それが今、これから自分が身につけていきたい習慣です。

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