「未来の吹奏楽教育を考える」に参加して ①「叱らない吹奏楽部」の実践

少し前の話になってしまいますが、8月11日に東京学芸大学で行われた公開講座「未来の吹奏楽教育を考える」に参加してきました。

講師は東京学芸大学の高尾隆先生と玉川学園中学部の土屋和彦先生。参加者は吹奏楽が初めてという方から、高校生、ベテラン指導者まで多彩で、自分にとっても学生時代にお世話になった先生から教え子の卒業生まで参加しているという、どこか不思議な気分になりながらも、世代や立場を超えたつながりができて、とても有意義な1日となりました。

ずっとこの講座に参加して感じたこと、考えたことを記録しておきたいと思っていたのですが、バタバタと気づいたら1ヶ月以上過ぎてしまいました・・・。今日から何回かに分けて、改めて少しずつまとめていきたいと思います。

 

「叱らない吹奏楽部」の実践

高尾先生は、もともとは演劇がご専門で、特にインプロ(即興演劇)を中心に研究されている方ですが、中高時代に吹奏楽をやられていた経験から、アメリカで吹奏楽教育を専門的に学ばれてきた異色の経歴?をもつ先生です。

以前は、指導者の指示に対して「はい!」とそろった返事が返ってきて、体育系張りに厳しい練習が当たり前とされていた吹奏楽部。今もその色はもちろんありますが、近年そこに異論を唱える論調も増えてきました。このブログでも何度となくこの話題には触れてきましたが、実際に高尾先生がある公立中学で実践されたことを具体的にご紹介いただき、改めてすっきりとしたことがいくつもありました。

 

イルカの調教から学ぶこと

イルカの調教をする時には、「〇〇してはいけない」という負の強化よりも、「〇〇する」という正の強化を多く行うそうです。

それは、負の強化が多くなってしまうと、叱られたくないので、最終的に何もしなくなってしまうからだそうです。

確かにこの場面、学校現場でもよく見かける気がします。「出る杭は打たれる」ではないですが、もしやってみて、失敗したら怒られるという気持ちが先行したら、人間だって挑戦しなくなるものです。一見するとおとなしくて“いい子”に見えるかもしれませんが、自分がやってみたいと思うこと、挑戦してみようと思うことを抑制してしまうことは、『自分自身の手で何かを成し遂げる』という成長のチャンスを妨げることにもつながります。

かといって、負の強化を全くしないわけにもいかないでしょう。その時に大事なのが「何をしたらよいのか分からない指示はしない」ということだそうです。そして、一方的に「ダメだ」と断定するのではなく、「お願い」という形で伝え、直してくれたら「今のでOKだよ」と正の強化を必ずすることで、安全に失敗できる環境をつくっていくことが大切なのだ、とおっしゃっていました。

 

この一連の中身は、アレクサンダー・テクニークの授業でもよく言われる「否定形は脳に入らない」ということともつながりがあるように感じました。これは、脳は「〇〇してはいけない」の「〇〇」の部分を認識し、それを強く意識する傾向があるからこそ、「△△する」という肯定形にできるだけ言い換えてみることで、やりたいことを実行していくことが必要ということです。

例をあげるとすれば、「音を外してはいけない」ではなく、「自分のイメージする通りに吹く」と考えてみるといったことでしょうか。私はかなり「~してはいけない」「~しなくちゃいけない」という思考が強くはたらく人間なので、トランペットのレッスンの時には、よく先生に「どんなイメージで吹こうとしていますか?」と問いかけられることがあります。先生と会話をし、先生の演奏を聴く中でイメージができると、吹けなかったものがすんなりとできるようになることも、これまで多々ありました。

 

このように、正の強化を中心にして、負の強化が必要な場合は「お願い」をするという方法で、吹奏楽教育も考えていくと、より子どもたちの想像力、創造力が高められる実践につなげていけると思いました。

 

生徒をアーティストとして扱うこと

教育実習の時、私の授業を見学にいらした指導教官から、「教師は授業の司会進行役。主役になってはいけない」と注意を受けたことがあります。それ以来、自分の中に「教師は司会進行役」という言葉がずっと脳裏に焼き付いています。

とはいえ、実際に教員になって毎日授業を受け持ち、決められたカリキュラムを終わらせなければいけないというプレッシャーを感じながら授業を進めていると、つい生徒を置いてけぼりにして、自分の話が主役になってしまう授業になってしまうことがあります(反省)。

 

今回、高尾先生の「指導者の役割はファシリテーターであり、その仕事は演奏者の仕事を楽にすることにある」という言葉を聞いて、この「教師は司会進行役」という言葉がまず思い起こされました。

「教師」という言葉を構成する漢字を辞書で調べてみると、
 「教」= 教える。ならわせ、みちびく。
 「師」= 子弟を教える者。人の手本となる人。先生。
と出てきます。

この言葉からも、「自分は教師である(からしっかりしなければいけない)」と考える人は、「自分が手本となって、自分の知っていることを教え、できるようにさせなければならない」という使命感を強く持っている人も多いような気がします。

この使命感自体は決して悪いことではないではありませんが、この使命感を達成するために、生徒が犠牲になってはいけません。教え込んでしまった方が早いこともありますし、短期的に見たり、集団を統制したりするためには、その方が効率が良いこともあるでしょう。でも、一人ひとりの成長を長期的な視点で考えたら、そう単純にはいかないものです。

もちろん、まっさらな状態で何も知らない生徒に対して何も教えなかったら、いくら生徒自身で工夫しようと思っても、その課題を乗り越えるためのハードルは高すぎます。しかし、全部教えて、全部その通り従うようにとしてしまっては、生徒は自分から考えたり工夫したりすることを止めてしまいます。

 

2年前、青山学院大学社会情報学部ワークショップデザイナー育成プログラム(以下、青学WSD)に参加した時、ワークショップ製作のチーム実習で「参加者にとって適切なハードルになっているか」というところで意見が分かれ、まとめるのが大変だった記憶があります。低すぎても「何だこんなのやる気しない」となってしまうし、高すぎても「こんなのちょっとできないな」となってしまうものです。「少し頑張れば(少しの手助けがあれば)できるかもしれない、やってみよう」と思う絶妙なところに目標を置くことがまず絶対に必要だということを叩き込まれました。

また青学WSDでは、ワークショップを実施する際、ファシリテーターがどのように参加者に関わっていくのかということについては、F2LOモデルを使って観察・分析を行う方法を学びました。このモデルで分析してみると、ファシリテーターは参加者の状況によって関わり方が変わってくることがよくわかります。もし参加者同士がなかなか混ざり合えなかったら、間に入って物事を進めるきっかけを作らなければいけないし、参加者同士だけで回り始めたら、少し距離を置いてみることも必要です。

 

話が少し脱線しましたが、「指導者はファシリテーター」だからこそ、目の前の生徒たちがどのような状況にあって、どのように関わったら一人ひとりが夢中になって、その場の状況を楽しいと思って、自ら動き、関わり始めるのかを刻々と考えていくこと。それだけ指導者には「観察すること」が求められるのだということを、改めて感じました。

そして、その大前提として高尾先生がおっしゃっていたのが「生徒をアーティストとして扱う」「演奏者を信じる」ということです。

演奏者である生徒一人ひとりが自分自身の音楽をもつ「アーティスト」であり、指導者はその一人ひとりの力を信じて、必要に応じてアドバイスをしてみたり、相談に乗ってみたり、間に入ってみたりしながら、全体が成長していけるようにじっくりと関わっていく覚悟を持つことが必要なのだなと思います。

自分のことを信じていない指導者に何を言われたって、心には響かないものです。一人ひとり、感じ方も、目に見える成長の度合いも違うもの。「できていない奴はダメだ!」と一斉に切り捨ててしまうのは教育的ではない気がします。

だからこそ、一人ひとりとじっくり接しつつ、その一人ひとりの良さが全体の中で映えるようにもっていくことも指導者の役割なのかなと思います。そして、できることならば、演奏者である生徒たち同士が、互いを信頼し合い、安心して自分の音楽を奏でられるような環境をつくっていけたらと思うのです。

 

そんな吹奏楽部が世の中に増えていったらな、ではなくて増やしていかなきゃな、いやまてまずは自分の学校からではないか、、と思った高尾先生の「叱らない吹奏楽部」の実践報告でした。

 

★この記事の続きはこちら →②コミュニティバンドを育てる

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「未来の吹奏楽教育を考える」に参加して ①「叱らない吹奏楽部」の実践” への2件のコメント

  1. ピンバック: 「未来の吹奏楽教育を考える」に参加して ②コミュニティバンドを育てる | とあるラッパ吹きのつぶやき

  2. ピンバック: 令和元年の大晦日を迎えて。 | とあるラッパ吹きのつぶやき

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