否定形で問い詰めるのではなく、肯定形で気持ちを引き出してみる

「何で分かんないの?」
「何でできないの?」
「何でやらないの?」

私自身、幼い頃に大人からこのように問い詰められた記憶がたくさんあります。その時、自分はどんな風に思っていたかと言えば、
「何で」って言われても・・・・。
分からないし、
できないし、
やる気にならないし。。。

今考えると、自分はかなりマイペースな性格をしていて素直に大人の言うことを聞くタイプではなかったので、きっとやきもきしてこのような言葉を投げかけたのだろうなと思ったりもしますが、親の心子知らずで、こんなことを思っていました。
でも、このように追い詰められたところで、どのようにやればいいのかという方法が分からなければ手のつけようもありませんし、何のためにやることなのかが分からなければ興味もわきません。
それは分かっていたはずなのに、学生時代に部活で後輩を教えたり、家庭教師のアルバイトをしていた時、さらには教員になってからも、「なかなか分かってくれない」「なかなかできるようにならない」「なかなかやろうとしない」生徒(後輩)を見ると、口にこそ出しませんでしたが、心の中では同じようなことを思うようになっていました。
このようなことを思う背景にはどのような思考が潜んでいるのでしょうか。
そこには、「きっと自分の考えていることが、相手に伝わり、そのようにやってくれる」という期待と願望があるような気がします。
もちろん、教育には「こんな風に子どもたちを育てていきたい」というような理想は必要だと思いますし、社会で生きて行くためのルールやマナーを教えることや、その過程で厳しく壁となることも必要だと思います。しかし一方で、相手が子どもであっても他人は他人。自分の思うがままに操ろうなんて、とても厚かましいことですし、本来無理な話なのです。少しでも伝わったら大収穫。そのくらいの気持ちでいないと、結果として相手の事だけでなく、自分自身の事も苦しめることにつながる気がします。
それでも「伝わってほしい」「分かってほしい」と思うのは人間の性。相手が根負けするくらい、必死に伝えようとしようとする姿勢も時には必要かもしれません。でも、たとえ伝わらなかったとしても、相手を責めることはできません。なぜならそれは、「自分自身の願い」であって、必ずしもそれが「相手が望んでいること」と一致しないこともあるからです。人の心は、自分のコントロール範囲外なのです。それを忘れてしまうと、相手のことを強く責めてしまうこともあるでしょうし、自分自身のことも「なぜ分からせることができないのだ」と責めることもあるかもしれません。それはお互いにとって、あまりプラスになるとは思えません。
指導者の立場にある大人が、「何で分かんないの?」「何でできないの?」「何でやらないの?」と問い詰めているのを耳にするととても悲しくなります。聞いていて苦しくなることもあります。でも残念ながら、現場で耳にすることは少なくありません。
人間ですから、思ってはいけないということはありませんが、子どもたちに直接ぶつける言葉ではないと思います。この問いかけは自分の中で、どうやって指導したらいいか考えるときには使えますが、直接ぶつけたところで子どもたちがすぐに問題を解決できるわけでもないと思うからです。もし子どもたちが「分からない」「できない」「やらない」ということがあったら、まず指導者自身が自分の指導がどうだったかを振り返ることが大切です。もしそこで改善できることがあったら、指導のアプローチを変えて、また挑戦すればいいこと。子どもたちを責めるのは、指導力不足を自分で叫んでいるようなものだとも思います。
その代わりに、
「どうしたら分かるようになると思う?」
「どうしたらできるようになると思う?」
「どうしたらやる気が起こるかな?」

と尋ねてみるのも一つの方法だと思います。一見同じようなことを聞いているように思うかもしれませんが、実はこれらの尋ね方は“肯定形”になっています。
さらには、
「どんな風にやってみたい?」
「どんなことをやってみたい?」

というように、子どもたち自身の中にどのような思いや願いがあるのかを尋ねてみることで、子どもたち自身が持っている力が目覚めるきっかけになることもあるかと思います。
もともと子どもたちの心にも「自分は何でできないんだろう」などという不安や悩みがあるはずです。それを「分からない」「できない」「やらない」という“否定形”の言葉を使って問い詰めてしまうと、子どもたちは精神的にも追い込まれ、自己否定に走ってしまうこともあるように思います。一方で、同じように原因を考えようとするときに、上記の上記のような“肯定形”の言葉で聞いてみると、過去の自分の過ちを振り返るのではなく、自分が次にしたらいいと思うことを想像しやすいと思います。人によって感じ方の違いはあると思いますが、自分はこのように聞かれた方が、自分自身を責めずに済むなと感じます。
生徒自身に考えてもらうことは大切ですし、何もかも手取り足取りするのがよいとは思いません。ただ「先生はこうだ。だからこう考えるべきだ」のような極端な言い方では子どもたちはついてこないと思います。媚を売るのでもなく、上から目線でもない。人としてどう付き合うかが結局大切な気がします。
指導力は人間力。
いくら知識があっても、いくらすごい技術を持っていても、人を惹き付ける力や伝える力がなかったら、宝の持ち腐れになってしまいます。もちろん人間力を裏打ちする知識や技術も必要ではありますが、それだけになってしまわないことも大切です。
指導者は、あくまで子どもたちの人生にレールを引いて、その一つの方向に強制的に連れていくものではありません。むしろ、横で一緒に歩きながら、迷ったり悩んだりしたときに話を聞いたり、ヒントになるかもしれないことを伝えてみたりしながら、ゆっくり背中を支えていくような役割のように思います。
指導者が高い理想を持つことも、自分の信念を貫こうとすることも大事です。でも、生徒がそれを達成するための道具になってしまうことは避けるべきだと思います。指導者という立場に立ったとしても、いつも泥臭い人間でありたいものです。

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