部活動にルールは必要か? ~「青春劇」が「残酷ショー」にならないために~

最近、高校野球の投手の球数や休養日の必要性を訴える記事をよく見かけます。
確かに見ている側としては、「青春を懸けて全力で戦っている」姿に感動するというのも分からなくはありませんが、よく考えてみると、「残酷ショー」を楽しんでいるだけなのかもしれないと思ったりもします。
夏の甲子園。40℃近い炎天下の中、母校の勝利のため、地域の期待も背負って連日連投で投げ続ける選手。甲子園の舞台を目指し、優勝旗を手にすることを夢見て猛練習してきたことを思うと、選手自身も「全身全霊で頑張ろう。何があっても投げ抜こう」という強い気持ちでマウンドに立っているのではないかと思います。多少の痛みがあっても、少しくらい調子が悪くても、「何とか投げ抜きたい」という思いは誰よりも強いのではないでしょうか。そのような状況にある選手に、「まだ行けるか?」と監督が尋ねたところで、「まだ行けます!」としか言えないのだと思いますし、頑張ろうとしている選手を止めるのが心苦しいのも分からなくはありません。
でも、悩んでいたり、苦しんでいたりする生徒に対して、「大丈夫?」と声をかけた時、「大丈夫」と答える生徒は本当は大丈夫ではないことが多いと言われます。「大丈夫じゃない」からこそ「大丈夫」と我慢して、自分の中で抱え込んでしまい、周りが真の悩みや苦しみに気付けなかったということは少なからずあるように思います。
本当は、規定回数や規定の休養日数といったルールを決めなくても、監督する立場にいる大人が一人ひとりの選手の状態を思い、目の前の試合結果だけにとらわれることなく、長い目で見た采配ができるようになることが一番なのだと思います。それが、高校で潰すことなく将来にわたる可能性を残していくということにもつながるような気がします。一方で、目に分かる結果が出てくる以上、「勝たせてあげたい」「頑張った結果が結びついて欲しい」と思う気持ちも分かります。その思いが行き過ぎた指導につながってしまうことも少なくないのが、とても残念なところです。
このように考えてみると、高校野球に限らず、部活動を行う上でのルールづくりというものは必要なことのように思います。もちろん競技や種目などによって異なるルールが必要だと思いますし、それが規制となって、子どもたちの「やりたい」という気持ちを削ぐようなものになってしまうのはどうかと思います。ただ、やろうと思えばどこまでもやれてしまうことだからこそ、ある一定の枠組みを決めて、その中でどうやって活動していくかを考えることも必要なことなのだと思います。
時間をかけて丁寧に取り組むことは大事だと思いますし、数をこなすことでできるようになることがあるというのも分かります。しかし、仕事などでは決められた期間・時間の中で一定の仕事量をこなすことも求められますし、(膨大な量でどうしようもない場合などは別として)効率悪くダラダラと残業ばかりしていたら、あまり良い目では見られないと思います。
私自身は学生時代、とにかく部活命で生きてきた人間ですので、もし部活動への制限がされ過ぎていたらと考えると、逆に学校に行けなくなっていたのではないかと思うこともあります。部活を割と自由に伸び伸びとやらせてもらえたお陰で、自分に自信をもつことができた面もありますし、仲間の輪を広げることで得たものも多かったと思います。ですから、「部活をもっとやりたい」と思っている子どもたちの気持ちは分かりますし、部活廃止論まできてしまうと、悲しく思ったりもします。
ただ、社会で求められる力も考え方も変わってきていますし、子どもたちが部活に求めているものも少しずつ変化してきているのも事実です。そういったことから目を背けて、精神論・根性論だけで指導するのもまた時代遅れなのだと思いますし、そうした指導によって苦しんでいる生徒が全国にはたくさんいるのも事実です。
ついてこられない生徒が悪い訳でも、一生懸命頑張っている先生が悪い訳でもありません。「強豪校」「名門校」と呼ばれる学校でも、そのあたりのバランスがうまい学校はたくさんありますし、一見すると厳しそうな練習であっても互いの信頼関係のもとに一人ひとりをとても大切に育てていらっしゃる先生もたくさんいます。
要は「目の前にいる生徒たちをどう育てていこうとするのか」なのだと思います。
自転車に乗ることができない子どもに、いきなりマウンテンバイクで片輪で走りなさいと言ってもできないように、一人ひとりが今どのような状況にあって、次に何をすればさらに先のステップに進めるのかを考えることは非常に大切なことだと思います。これは「甘やかし」「ゆとり」とはまた違うことだと思います。
その中で、必要なルールは決めていく必要があるのかもしれません。成長段階に合わせて、どこまでやれるのか、どこまで求めるのかを考えた上で、それを実現するために必要な時間や方法を考えてみること。そして、そのルールに則って活動を続けていく中で、少しずつレベルを上げていくこと。決して「青春劇」という名の「残酷ショー」にならないように、大人たちが考えていく必要があるように感じます。
ただ、その上で考えたいこともあります。それは「ルールを守って活動する」ということの意味です。
決められたルールを守ることは大切なことです。そのルールにも一つひとつ意味があって決められているからです。でも、何でもかんでもルールで縛ってしまったら息苦しくなるものです。また、誰もその意味を答えることができないようなルールや伝統は崩していってもいいようにも思います。
ルールが全くなくなってしまったら、社会も学校も音楽も収拾のつかないものになってしまうかもしれません。ただ、ルールをなぜ守るべきなのか分からず、形式的に守っているだけでは、そのルールの有難みも分からないし、ただ窮屈な思いだけが残ってしまうこともあるかと思います。
たとえば音楽ならば、「楽典」というルール。
ただ譜面に楽語や標語が書いてあるから、という理由で守っているだけでは、そこに作曲者が込めた思いも分かりませんし、その音楽がどのような構造でつくられているのかも分かりません。それでは、その曲をどうやって表現すれば良いのかも分かりません。ルールを理解した上で、どう運用していくのかが問われると思います。
大事なのはルールを守るという行為そのものというより、なぜそのルールを守る必要があるのかということを一人ひとりが認識した上で行動することのように思います。そういう意味では、ルールを決める時にも「なぜこのルールが必要なのか」ということを考えて、本当に必要なものなのかどうかを精査する必要もあるように思います。
ガチガチにかためられたルールに縛られるのではなく、ルールを利用して皆が気持ちよく過ごせるようにしていけたらいいのかなと思います。

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