「ヒューマンエラー」という言葉があるくらいで、人ですから生きていれば何らかの失敗をすることは当たり前のことです。しかし最近は特に、コンピューターなどで正確な処理ができるようになってきたこともあってか、失敗に対して世の中が大変厳しい対応をすることが増えてきているように感じます。
もちろん、自分のしたミスによって、誰かの命にかかわる事態に発展してしまったり、会社に大損害を与えてしまったりすることもありますし、それは避けなければいけないことだとも思います。
ただ、必要以上に失敗を恐れてしまうと、なれ合いになってしまったり、新しいことに踏み出していく気持ちが育たないこともあります。今日は、失敗をどうとらえるかを考えていきたいと思います。
|失敗はできればしたくないもの
失敗Welcome!! どんとこい!
なんて、なかなか言えたものではありません。私もできれば失敗はしたくないなと思いますし、失敗したらやっぱり凹みます。むしろ、失敗したらそれがトラウマになってしばらく立ち直れなくなってしまうほど、気にする人間です。
誰でも失敗はできればしたくないし、失敗して一番嫌な思いをするのは当人です。
だから失敗をしたときには、「次に失敗しないようにするためには…」と考えて、同じような失敗をしないように、いろいろ方策を考えて次に備えようと学習するのだと思います。
その気持ちを利用して、「失敗させないように」指導するという方法もあります。
- ケアレスミスをしないように!
- 転ばないように!
- 間違えないように!
- 音を外さないように!
- 減点されないように!
このように、日本の教育は「失敗させないように」という指導方法が非常に多いような気もします。さらには、相手を叱責することで失敗を悪いこと、怖いものと植え付け、「失敗しないように」育てようという考え方も一般的である気もします。
しかし、過剰な叱責を続けると、挑戦する気持ちを失ったり、失敗を隠したりするようになることもあります。それは表面上では失敗を減らすことにつながるかもしれませんが、相手の成長を心から願ったときには、決してプラスなるとは思えません。
ただ責めるのではなくて、次の一歩をどう踏み出すのかを考えられるような言葉をかけてあげられるとよいのかなと思います。
|失敗を責める理由はいくつかある
誰かの失敗を責める人がいたとき、その人はどのような心境で失敗を責めているのでしょうか。
それには大きく3つあると思います。
- 本気で相手に失敗させまい、成長してほしいと願って指摘している
- 相手の失敗が自分に降りかかってこないように指摘している
- 相手のことを陥れようとして指摘している
1つ目は、教員はもちろん、親の立場でも多いことかなと思います。「失敗させたくない」「次こそは上手くいって欲しい」という願いが強いからこそ、子どもの失敗を責めてしまうことはよくあることだと思います。
しかし前述の通り、失敗を責めてばかりいると、「上手く繕おう」とする気持ちも生まれてくるものです。その結果、失敗を隠したり、失敗しないようにあまり冒険的な挑戦をしないようになったりして、結果として成長の邪魔になるような気持ちを育ててしまうこともあるような気がします。
Twitterで次のようなツイートを見かけました。
暴力や恐怖で子どもをコントロールすることの弊害は、子どもが、暴力や恐怖で周りを支配する行動を学習してしまうこと、そうなったときに、指導が入らなくなること。https://t.co/Ka9BblpkNd
— Nikov (@NyoVh7fiap) 2017年3月17日
失敗を責めることは、暴力や恐怖で子どもをコントロールすることと同義であると思います。失敗を責められた育った子どもは、人の失敗を責める大人に育ちます。それは、人のマイナスばかりに目がいき、なかなか肯定的に物事を考えることができない大人に育つということでもあると思います。それは決してその子どもにとってプラスになるは思えません。できたら失敗を責めるのではなくて、失敗したことから何を学ぶのか、目標とすることを達成するには何をすればいいのか建設的に考えていくような教育というものが望ましいのだと思います。
2つ目は、相手の失敗が自分の責任とならないように、「自分がやったんじゃないからな、お前がやった失敗だからな、関係ないからな」と執拗に責めるということです。
私は、失敗したことについて誰かに指摘するとき、一番見苦しいのは、その失敗が自分の責任にならないように相手を執拗に責めることだと思っています。
極端な例ですが「お前が音外したから全体の演奏が台無しになったんだ!自分達は頑張っているのにこのザマは何だ!何で音外したのか原因を追究してみんなに謝罪しろ!」というように、責任を一人だけに押し付けるのは違います。
大事なのは起こったことの責任を問うことより、次どうすればうまくいくかを皆で考えること。責任問題だけ取り上げて足の引っ張り合いをするのは建設的ではありません。
明らかに一人の責任で起こったミスである場合であったとしても、そのミスが起こりうる原因はその組織や集団の雰囲気や環境によるところであることも多いものです。むしろ、生徒や部下のミスだったとしたら、それが起こらないように環境をつくったり、育てたりするのが教員や上司の仕事。それを責めたてるのは本質的ではないと思います。失敗は起こりうること。それをわかった上での対応をしたいものです。
3つ目は、相手が失敗したことで失脚すれば、自分が得をするという場面での話です。
どんなに頑張っても追いつけないような相手がいて、自分自身が行き詰っているとき、「あいつさえいなければ…」と思うことはあるかもしれません。でも、その誰かがいなくなって自分が優位な立場に立てたとしても、それは自分自身が成長したからではないし、自分の力が認められたからでもありません。
自分の力で得たものでなければ、自信になることはありませんし、一時の優越感を味わえたとしても、後で虚しさだけが残るはずです。
このように考えると、失敗を責めることは自分にとっても相手にとっても決してプラスになることではないように思います。逆を言えば、失敗を責めてくる人に振り回されて自分までも責めてしまうのは、自分の成長を遮ってしまうことにもつながるように思います。
|まとめ
失敗を何でもかんでも開き直ってしまえばいいとは思いません。でも、誰かに失敗を責められたときに、それを真に受けてしまい、自分自身を責め続けたり、「失敗しないように」という気持ちを増長させて、成長を止めてしまうこともありえる話です。
先日、日本経済新聞に次のような記事が載っていました。
日本の高校生、目立つ「受け身」姿勢 米中韓と比べhttp://www.nikkei.com/article/DGXLASDG13H2S_T10C17A3000000/
授業のやり方はもちろんあるかもしれませんが、受け身だと「真面目で素直」、積極的だと「出る杭は打たれる」のような雰囲気ももしかしたらあるのかもしれないなと思います。受け身の方が楽は楽。「目立たないように」「失敗しないように」という意識は日本の教育の中で根強いのかもしれません。
作曲家の福田洋介さんが、次のようなツイートをされていました。
通年でレッスンしている高校の年度最後の訪問。最後に話したこと。「上手くいかなかったらくよくよすればいいし、上手くいったらニヤニヤすればよい。自分の喜怒哀楽を大切に。楽器やりながら、ひとつの態度に決めちゃうんじゃなくて、思春期なりの忙しい心の動きに素直になれば良いと思う。」→
— 福田洋介 (@fukudayosuke) 2017年3月15日
怒らないように、とか、笑わないように、とか、ストイックにするのも方策かもしれないけど、生身の人間の営みの中では、感情がたくさん動くほうが表現力になるのだし。とはいえ世の中に居ては「自分の気持ちを素直に認める」のって勇気が要るかもしれないけど、自分を健全化するには大切ではないかと。
— 福田洋介 (@fukudayosuke) 2017年3月15日
日本は「感情はコントロールするもの」「周りの空気を察するべき」という意識が強い気がします。それが良さでもある反面、当然起こりうる思春期の葛藤さえも抑え込んでしまう子もいます。感情は動くもの。ぶつかることもあること。大切なのはフォロー。そんな雰囲気をつくって、失敗を恐れることなく、「やりたい」と思ったことに対してとことん挑戦していけるような環境をつくっていきたいものです。