「吹奏楽”部”でやっていることは音楽じゃない」のか?

「吹奏楽”部”でやっていることは音楽じゃない!」という批判の声をよく耳に(目に)します。それにいわゆる”部活問題”というものが取り上げられて、『部活廃止論』も活発になってきました。

一方で、楽器を演奏することが楽しくて、仲間と一緒に日々努力している子どもたちもたくさんいます。そして、吹奏楽部での活動がきっかけとなって音楽の道に進む人も多いですし、専門にしなくとも生涯の友として音楽を楽しみ続けている人も多いと思います。

そういう人は、決して「部活」をやりたかっただけではなく、その中で音楽の面白さと出会ったのだと思いますし、部活でも「音楽」をやっていたからこそ、「音楽」とずっと付き合っていこうと思ったのだと思います。

今日は、これからの『吹奏楽部』がどのような方向に向かっていけばいいのか、現時点で自分が感じていることをつぶやいていきたいと思います。

 

吹奏楽部がきっかけで、音楽と出会った人も多いはず

以前、某音大のピアノ科の先生が「ピアノは習う子が減って、音大受験人口も昔に比べるとだいぶ減ってしまったけれど、管楽器は吹奏楽のお陰で倍率が上がってきている」とお話されていたことがありました。

週末にもなると、地域の公共施設はアマチュア吹奏楽団やアマチュアオーケストラ、アマチュアバンドの練習で朝から晩まで満室状態です。練習場所の確保は、首都圏では死活問題だったりもします。

かくいう私も、小さい頃から音楽に触れる機会はあったものの、本当に音楽が楽しいと思うようになって、進んで音楽を聴いたり、楽器の練習をしたりするようになったのは中学の吹奏楽部に入ってからでした。本当は運動部に入ろうと思っていたのですが、小学校で一緒にトランペットをやっていたという理由で友達に連れられて吹奏楽部の見学に行ったら、「経験者歓迎」と言われてそのまま入部することに。何となく入ってしまった吹奏楽部でしたが、気づけばどっぷりハマっていました。私のことを連れていった友達は半年ほどでとっとと辞めてしまったのですが、今でも彼女には感謝しています。

現在、日本で音楽が盛んなのは、吹奏楽の普及と全く関係がないかといえばそうではないかと思います。「吹奏楽”部”なって音楽じゃない」と言っている音楽家、音楽愛好家の中にも、「音楽との出会いが吹奏楽部だった」という人は少なからずいるはずです。

では、なぜ「吹奏楽部叩き」のような発言が多く見られるのでしょうか。

 

「根性論」で”従わせる指導”が多く見られる

吹奏楽部を指導されている顧問、指導者の中には
「吹奏楽は人間力を高めるための”手段”に過ぎない」
「結果が出せなければ意味がない」
「ミスは絶対許さない」
「思い悩んだり、苦労することも勉強のうち」
という人もいます。それも一つの考えですし、子どもたちの成長を願い信念を持ってそう指導している人もいます。学校という”教育現場”で行われているからこそ、”子どもたちの成長”という”結果”を追究することは当然のことだとも思います。

かくいう私も、高校で学生指揮者を務めていた時や就職して顧問になったばかりの頃は、精神論でスパルタで叩き上げた方が部員も練習するようになるだろうし、コンクールの結果なども良くなるのではないかと思って、そのように走ったこともあります。

でも、その中で心が折れてしまう子どもたち、音楽そのものとさえトラウマとなってしまう子どもたちがいることを忘れてはいけません。

中には、
「心が折れてしまうのは弱いからだ!鍛え方が足りないのだ!」
「社会に出たら、そんなに甘いことは言っていられない!」
と言う人もいることでしょう。

確かに、ちょっとしたことで物事が嫌になってすぐに投げ出してしまったり、人に言われたことを気にし過ぎて立ち行かなくなったり、物事がうまくいかないことを周囲の環境のせいにして自分が変わろうとしなかったりする人は、社会で生きていくのは大変なこともあると思います。

これからの世の中というのは、「上司に絶対服従型」ではなく、「自分で考えて積極的に行動できる型」の人材がより求められるようになってくる時代です。学校現場でも、「教師が一方的に内容を教える授業」から、「アクティブラーニング型の生徒が活動的に学びをつくりだす授業」への転換がはかられています。

このような状況において、「暴力・暴言による絶対服従」に頼った指導、「規則と懲罰」に頼った指導というものは、もはや時代遅れなのだと思います。コンクールの結果や短期間で成果を出すためには有効的かもしれませんが、子どもたち一人ひとりの成長を長い目で見たときには、それは決してプラスに働くとは思いません。

しかし、まだ吹奏楽部ではそういった指導が少なからず行われている節があります。その中で、心を痛め、自分を責め、生きることさえ苦しくなってしまう子どもたちがいます。それが「吹奏楽”部”叩き」の一つの原因になっていることは確かだと思います。

 

「結果」や「ミス」をどのようにとらえるか?

「結果が出せなければ意味がない」と言う人がいます。
一方で、「結果より過程が大事」と言う人もいます。

学校現場で多く見られるのは、普段の授業やクラス担任として生徒と接している時には「結果より過程が大事」と話しておきながら、部活になると「結果が出せなければ意味がない」とスタンスを変える先生です。別の教員が言うのならまだしも、同じ教員がそのように言うわけですから、生徒は混乱することでしょう。

しかしそれは決して「部活になると人が変わってしまう」先生だけに言えることではありません。特に運動部は「試合の勝ち負け」という”結果”が目に見えてついてきてしまうだけに、いつも負けてばかりいると子どもたちの自信を失わせることにもつながる可能性がありますし、「勝ち」にこだわることで、そのための過程を意識させることができるということから、「結果が出せなければ意味がない」と子どもたちを鼓舞している場合もあると思います。

私はどちらかというと、ずっと「結果より過程が大事」と考えるタイプの人間でした。でも、今は「結果にこだわることは大事」だと思っています。

ただそれはコンクールで金賞をとらなければいけないとか、第一志望校に合格しなければいけないということではありませんし、「結果が伴わなかったらすべてが水の泡だ」という風には思いません。でも、結果を受け止めずに、「頑張ったから良かったね」というフィードバックだけでは成長することはできません。

私が重視すべきだと思っている”結果を大事にする姿勢”とは、”目指していた結果”でなければダメということではなく、”自分がやってみたことに対する結果”を真摯に受け止めるということです。

  • その結果にたどり着くためにどのような行動を積み重ねたのか、それがどのような結果となったのか
  • 目指す結果に届かなかったとしても、今回自分がやってみたことで、少しでも成長できたところ、次につなげるための土台にできたところはないか
  • 自分が目指している結果のためには、次にどのような取り組みをして行く必要があるのか

このように、行動と結果の関連を考察し、「やったからには、ただじゃ終わらせない」という姿勢も大事なのだと思います。

例えば企業で膨大な時間や費用をかけたプロジェクトがあったとします。当然のことながら、失敗したらその企業にとっては大きな損害ですし、失敗するわけにはいきません。しかし、他の企業との競合などにより、どうしても利益を勝ち取れない企業も出てきます。その時、旧来の日本の責任の取り方のように、「責任者、担当者が辞任する」「プロジェクトチームが解散する」だけでは、企業にとっては損失だけが残ります。

責任者、担当者もそれなりの力量が認められてそのプロジェクトに参加していたのでしょうし、そのプロジェクトを通して、企業が次の事業を起こそうとしたときに役に立つアイディアや技量などを身に付けているかもしれません。むしろ、たとえ目の前の利益を手にすることができなかったとしても、後々その企業にとってプラスにできる要素をつくるように人材も費用も時間も投資していくことが大事なように思います。それこそが、無駄を最小限に抑え、利益をつくりだすために必要なことなのではないでしょうか。

 

ミスも然り。ミスを責め続けても解決しませんが、何も考えずに同じミスを繰り返していたり、とりあえず謝ってみたり、全く開き直っていても成長できません。責めるでも開き直るでもなく、原因を考えたり、別の方法を工夫して試してみたりと、次に挑戦するためのヒントにできたらいいのだと思います。

トランペット奏者のボビー・シューさんが、日本でのクリニックの際に次のようなことをおっしゃっています。

私がクラシックやオーケストラであまり演奏したくない理由は、皆さんは失敗を恐れてナーバスになっているからだ。ミスったら「ハラキリ」とばかりにね(笑)

そんなのは楽しくない。一番いけないのは完璧に演奏しなきゃダメだと思いこみすぎることだ。私たちは人間なのだ。完璧な存在ではない。
音楽はオリンピックじゃない。人々を感心させようとか、好かれたいとも考えてはいけない、ただただ楽しむんだ。

 

「ミスしたら出ていけ!」
「ミスしたらみんなの前で謝れ!」

このように「ミスは絶対悪」のように指導することが、吹奏楽部の現場ではまだまだ見受けられます。子どもたちに緊張感を持たせ、集中力を高めて成功に導くという考えのもとに行われているとは思うのですが、それではミスしないようにと委縮したり、目立たないように隠れたりする子どもも出てきます。それをまた叱っていたら・・・。「叱られるから、やる」という非常に受動的な子どもを育ててしまうことになりかねません。

「叱られるから、やる」ではなく、「やりたいから、やる」という気持ちにどのように持っていくか。それが指導者の腕の見せ所のようにも思います。

「結果」も「ミス」も見逃さない。でもそれは、責めるものではなく、活かすもの。そういった考えのもとに、子どもたちがのびのびと音楽と関わり、人生を豊かなものにしていってほしいと願わずにはいられません。

 

おわりに

ここまで、なぜ吹奏楽部がやっているのは音楽じゃないと言われるのかということについて書いてきました。しかし全国には、「子どもたちにもっと”音楽”を!」「音楽的な成長を通して、子どもたちの豊かな成長を!」と願って、全力を注いで指導されている顧問の先生や指導者の方も数多くいらっしゃいます。研修会などに出かけると、そこには巷でよく取り上げられるような「精神論に頼る熱血顧問」ではなく、「自ら知識や技能を磨いて、少しでも子どもたちの力を伸ばしたい」と願って熱心に勉強されている先生方の姿がたくさんあります。今までいろいろな先生方や子どもたちとも出会ってきましたが、そこにはもちろん「音楽」があります。ただ、その中で「音楽」ではないことが行われているのも事実です。でもそれはほんの一面であり、多くの部活で「音楽をしよう」と取り組まれていることは広く知られて欲しいなと思うところです。

部活の在り方は、教員や生徒の多忙・過労問題、顧問の専門的知識・技能の不足による根性論の横行、大会結果への地域・学校の過剰な期待など、様々な要素が絡み合った複雑な問題になってきています。

私は『部活廃止論』には反対です。それは単に自分が部活をやりたいというわけではなく、学校という場で、子どもたちがクラス、授業、委員会、部活などで見せるいろいろな表情を見ていて、複数の目で一人の子どもと接していくことの重要性を感じているからです。そして、子どもたちが自分の得意を活かして、どこかで自信を持って生きていける場を学校の中にもつくれたらなと思うからです。

ただ一方で、過熱しすぎた部活動、実質学習よりも部活優先になってしまっているような状況には疑問も感じます。反対に、高校や大学入試実績ばかりを重視して、予備校化していく学校にも疑問を感じています。でも、それも社会が何を求めているのかによるところも多いですし、それに対して子どもたち自身や家庭、学校が何をするのかということは、刻々と変わっていくものもあるのだと思います。

子どもたち一人ひとりが抱えているものは、一人一人違うもの。だからこそ、目の前の子どもたちにとって何が良いのかということは、生徒の置かれた環境、学校の置かれた環境によっても異なってきますし、すべて一律で考えることはできません。様々な議論が今後も進んでいくように思いますが、普遍的に大切にしたいことは、「目の前の子どもたちにとってどうか」ということを常に忘れないことだと思います。それこそが、これから吹奏楽部、学校教育がどのような方向に進んでいくのかを決めていく根本である気がします。

 

iQiPlus

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。