音を外す?当てる?

トランペットは目立つ楽器です。それだけにカッコよく決めるとヒーローにもなれるけれど、破壊力や影響力も大きいが故に、音を外すとこの世の終わりのような気分になることもある気がします。

自分もトランペットを初めて30年近くなりますが、その大半を「音は外しちゃいけない」という呪縛に縛られて生きてきました。あまりにもその呪縛が強すぎて、楽器を吹くことがプレッシャーになり、逃げたくなることもありました。

今日は音を「外す」「当てる」ということについて、少し考えてみたいと思います。

 

「外してはいけない」という呪縛はどこから?

かつてレスピーギ「ローマの松」をやったときのこと。第1部「ゲーゼ荘の松」に次のような部分があります。楽譜に書き込んだ通り、私は細かいところは吹かなくていい(同級生が担当する)から、絶対にHigh Cを当てろ!という指令が指揮者からありました。

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当時、ミストーンをしたり、ハイトーンが当たらないのは気合いが足りないからだと本気で思っていた私は、外すたびに罪悪感に駆られ、自己否定に走っていました。

さらには合奏の中で指揮者の先生に次のような喝を入れられたこともありました。

私 (HighC外す)
先生 「次外したら罰金5000円だ!」
私 (HighC当てる)
先生 「そんなに5000円惜しいのか!」
私 (惜しい。っていうか払えない。気合いで外さない)

結局、「絶対に当てるのが自分の仕事」という使命感が、気づけば「絶対に外してはいけない」というプレッシャーに変わり、本番は見事に外す、ということがこの曲に限らず繰り返される結果となりました。

またその結果、奏者仲間からも「トランペット、外さないでくれる?」と言われたり、演奏会後のアンケートにも「ミストーンが気になる」と書かれたりと、音を外すことは死に値するのではないかと思うくらい責められる気持ちになることも少なくありませんでした。

そして、このような積み重ねが、恐らく絶対にミスしてはいけない呪縛になって長いこと自分を苦しめていました。それは今も完全にはぬぐい切れていないようにも感じています。

誰でも「外したくない」「当てたい」とは思うとは思いますが、多くの場合、「外してはいけない」という呪縛は、指導者の言葉であったり、周りからの声掛けだったりと、誰かによって植え付けられるもののような気がします。言ってしまえば「外すことは悪」と洗脳されているようなものなのだと思います。

 

目標は「ノーミス」じゃなくて、「音楽を奏でること」

確かにコンクールなどでは、よほど音楽的に惹き付けられるようなものがない限りは、正確でミスのない演奏、技術的に難易度の高い演奏の方が高く評価されるという話も分かります。それらの要素も音楽表現の一つ。どちらも追究するのは必要ですし、どちらがいいというような白黒つける話でもありません。

もちろんミスなく思い描いていたような演奏ができたら嬉しいし、それを目指して練習することも大事なことだと思います。ただ、ノーミスが目標になって、体も気持ちも固まってしまったら、音楽の流れに乗って奏でるのは難しいものです。

自分が奏でる一音は曲の中で大事な一音である一方で、音楽が流れている中のたった一瞬の出来事です。一音を「当てにいく」「外さない」と考えるよりも、まずは演奏全体をどんな音楽で満たしたいかということが先にくるべきなのだとも思います。自分が個人としてその一音を外さないように集中するよりも、全体の音楽が流れていて、その流れにそって自分の役割を考えて奏でようとした方が、聴こえてくる音楽は心地の良いものになるような気がするのです。

先日、所属するオーケストラの演奏会がありました。練習では思うように音が当たらなくて、なかなか音楽に乗るところまでいけなくて、正直不安もあったのですが、本番に向けて全体の音楽の中で自分がどのように奏でようかというプランを明確に持ち、それに沿って練習を重ねてみました。

《本番でどう奏でるかプランの立て方》

  1. 演奏する曲の音源をいろいろ聴いてみて、奏でたい演奏のイメージを持つ
  2. 譜面を見て、それぞれの音をどのように表現したいか、場面なども考えながら具体的に決める
  3. 曲のテンポに合わせたブレスのタイミングやスピードを決める
  4. 声に出して自分のパートを歌えるようにする
  5. 頭とセキツイの関係を思い出し、体で必要なところは自由に使える、動くことができるという意識を持つ
  6. 1音ごとではなく、大きなフレーズを意識して、息の流れを大切にして吹く
  7. 頭の中では常に理想の音を鳴らしておく

このようなプランでいってみたところ、本番は音楽に乗って、とても楽しく演奏することができました。音は何度か外してしまったけれど、自分でも外したことで動揺せず、外したことを引きずらずにただ音楽の流れだけを考えて演奏できたので、録音を聞いてみても、自分のミスが全体の音楽の流れを止めてしまうようなことはなかったように感じました。

コンクールでも実は同じだと思います。

1995年の全日本吹奏楽コンクール高校の部。満点で金賞を受賞した神奈川県立野庭高等学校吹奏楽部が演奏したレスピーギ「シバの女王ベルキス」。よく聴くと終盤でトランペットがちょっとキツそうだったりするのですが、この演奏は伝説の名演として知られていますし、今聴いても素晴らしい演奏だなと思います。

ここまで音楽的に追究できれば、というご意見もあるかと思いますが、できれば先に音楽があって、その音楽をどのように奏でたいかがあって、その理想のイメージにどのように近づいていこうとするのか、指導者は明確なプランを持って臨む必要があるのだと思います。

もちろん音の間違いを指摘すること、音程やテンポのズレを指摘することも指揮者の役割の一つです。しかし、それだけで終わってしまうならば、そこから生み出される音楽は、ただ正確に音符が並べられただけのものになってしまいます。

正確さだけを追究して、ミスを許さず、統制された音楽づくりをしていくよりも、多少ミスがあったとしても、音楽をやろうという意思を奏者一人ひとりが積極的に出していけるような演奏の方が人の心には響くようにも思います。なかなか難しいところではありますが、自分は後者のような音楽づくりを目指していきたいと思っています。

 

まとめ

ただ「外すな」「間違えるな」という呪縛に雁字搦めになってしまうと、体も気持ちもカチコチに固まって、かえって思うように演奏するのが難しい状況に陥り、自分を責め始めてしまうこともあります。できれば間違えたくないのは当然のこと。でも間違えることがあるのも当然。人間だもの。仕方がない話です。

自分が音を外しても、間違えても、この世の終わりはやってきません。影響力も破壊力も、ホールで流れる音楽の一瞬には関わるけれど、地球全体に害が及ぶわけではありません。だったら、外した音のことは忘れて、次どう音楽を奏でたいかに集中した方が、奏者にも聴き手にも幸せな時間になる気がします。

その一方で、もちろんできればイメージした音楽を奏でられるように、思うように吹けるための技術を磨いていくことは絶対に必要なことです。頭の中で音楽が鳴っているけれど、それが全然表現できる技量になかったら、それはそれで自分も辛いもの。外すことを恐れずに、でも自分の技量を磨いて、奏でたい音楽が奏でられるように日々成長していけたらと思うし、生徒たちにも失敗を恐れずにいろいろ挑戦する中で、伸び伸びと奏でたい音楽を奏でられるようになっていって欲しいと思います。

 

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音を外す?当てる?” への2件のコメント

  1. 結局、吹奏楽コンクールでは審査員の先生方もよくわかっていらっしゃらないので、リズムが正確で音程が合っていて、ミスの少ない演奏に高得点を与ええるという、フィギュアスケート感覚で審査しているのですよ。野庭高の演奏も今では金賞は取れないでしょうね。

    • コメントありがとうございます。演奏に大差がなければ、まずは正確さで判断するのも仕方のないことかなとは思います。どんなに「やろうとしているんですよ」といったところで、演奏がぐちゃぐちゃでは伝わらないのもよく分かります。ただ、それだけではなく審査されている先生方もいらっしゃいますし、そこに期待したいところですね。「ミス=減点」ばかりが意識されて、学校吹奏楽がコンクールの審査だけにとらわれた活動にならないでほしいなと思っています。

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