Twitterで元公立中学の音楽の先生で、フルート奏者のShuten Takahashiさんが次のようなツイートをされているのを見かけました。
「先生、もっと厳しく指導してください!」
「しないよ」
「どうしてですか?」
「君たちを『厳しく指導されないとできない』人にしたくないからね」— Shuten Takahashi (@flshuten) 2019年5月6日
私も新任の頃から何度となく、生徒から「先生、もっと厳しく指導してください!」と言われたことがあります。
初めの頃は、自分が甘いからダメなのかなとか、もっと厳しくしなければいけないのかなと思って、根性論的指導法を模索したこともありました。
しかしどこかに、「怒られないように無理やりやらされる」ということで本当にいいのだろうかという疑問もあって、結局はいわゆる「厳しい指導」とは異なる形で生徒たちに接することが多くなったように思います。
でも同時に、「厳しさ」は絶対に必要だという思いもどこかにあります。なぜそのように感じるのだろうか、自分自身の中にある「厳しい指導」とは何なのか、今日はちょっと考えてみたことをつぶやいてみたいと思います。
|「厳しさ」とは何か?
「厳しい」という言葉をいくつかの辞書で調べてみました。
三省堂『大辞林』
(一)
① 厳格で、手心を加えない。取り扱いに容赦がない。
② 耐えがたいほど激しい。激烈だ。
③ 人を寄せつけないような印象を与える。柔和でない。
④ 何かをするのがむずかしい状態である。
(二)
① すき間なく詰まっている。密度が高い。
② 大したものだ。素晴らしい。
2 いいかげんな対処が許されないさま。困難が多くて、大変なさま。
3 自然現象などの程度が著しいさま。
㋐傾斜が急である。けわしい。
㋑気象条件がなみはずれている。激しい。ひどい。
4 物事の状態が緊張・緊迫しているさま。
5 すきまがなく密である。
6 なみはずれているとしてあきれ、また、感心するさま。たいしたことだ。結構だ
これらの説明を見てみると、一般的に「厳しさ」という言葉は、「厳格で甘えが許されない」「耐えられないほど激しい」「いい加減な対処が許されない」という意味で用いられていることが分かります。
特に「取り扱いに容赦がない」という『大辞林』の説明は、まさに教育現場で問題になっている「理不尽な指導」に結びつく表現のように感じました。
このように改めて調べてみると、やっぱり「厳しい」必要はないかもしれないと思ったりもします。でも、やっぱり「厳しさ」は必要のようにも思います。何だか調べてみてモヤモヤが増える結果に・・・
なぜ、このようなモヤモヤした思いになるのだろう・・・
今度は、日本語から離れて、英語で調べてみることにしました。
そこで、「厳しい」という意味を持つ”strict”という単語を英和辞典で調べてみました。
研究社『新英和中辞典』
1 a〈人・規則など〉厳しい,厳格な 《★【類語】 strict は規律などを厳正に守 る; severe は決められたことを厳格に守り,寛容さがなく妥協を許さない; stern は態度などが厳しくて情け容赦がない》.
b 叙述的用法の形容詞 〔+with+(代)名〕〔人に〕厳しくて,厳格で.
c 叙述的用法の形容詞 〔+前+(代)名〕〔…に〕厳しくて 〔in,about〕.
2 厳密な,精密な.
3 完全な,まったくの.
この【類語】の説明で、はっとさせられました。自分が求めていた厳しさは “strict” に近いもので、決して”severe” や “stern” ではないのだと。
要は、何かを徹底して守ろうとすることは大事だけれど、寛容さがなかったり、態度が情け容赦なかったり、というのはどこか自分とは相容れない部分なのだなと。
そういう意味で、自分自身に対する「厳しさ」というものは、やはり必要なことなのかもしれないと思いました。
|「厳しさ」は他人から与えられるものではなく、自分の中にあるもの
しばしば、教育現場で「厳しい指導」が「理不尽な指導」として、体罰や暴言とあわせて問題になることがあります。
感じ方や受け取り方、関係性などいろいろあるとは思いますが、生徒に対して「容赦ない厳しさ」を押し付けるものであると感じられたとき、その指導には理不尽さが含まれることも少なくないように思います。
そもそも「厳しく指導する」というと、相手のことを怒る、怒鳴る、罵る、というスパルタ根性論を想像する人が多い気がします。私も新任の頃に「厳しく指導してください」と生徒に言われたときには、そういうことだと感じました。
もちろん、そうしたいわゆる「厳しい指導」をされている先生も、信念を持って「生徒に厳しく当たることで、生徒自身の成長につなげていくことができる」と思ってやられているとは思いますが、冒頭の高橋先生のツイートにもあるように、大人がいつもハードルを置いてあげて、尻を引っ叩いてそのハードルを超えさせているだけでは、子どもは自分自身でハードルを置いて、自分自身の力で乗り越えようとする力を身につけることが困難になってしまいます。
学校は本来、社会に出る前に、一人で歩いていけるようにするための力を磨くところです。何でも甘やかして必要なものを与え、手取り足取り面倒を見てばかりいるのでは子どもは成長しません。しかし、いつも怒鳴ってばかりで、意味もわからずに課題をこなすだけになってしまう環境も、また同じように子どもは成長できないのだと思います。
ましてや、いくら”子どものため”と言っても、常に人格を否定したり、罵倒したり、暴力を奮ったりすることは、もはや「指導」とは呼べません。これでは「厳しさ」を通り超えた人権侵害になってしまいます。
しかし、指導する側にも、される側にも、自分自身の中に「厳しさ」は時として必要なものです。
先程述べたように、もし「厳しさ」が「自分がやろうと決意したことを、妥協せずに貫く」ことだとしたら、それがなければすぐに妥協して諦めてしまい、何か物事をやりきったり、上達したり、できるようになったり、ということにはなかなかつながらないからです。
何かをやり遂げようとしたら、多かれ少なかれ、その意志を貫こうとする根気強さは必要です。楽器でも勉強でも、少しやってみてできなかったからといって諦めてしまっては、本当に面白いところまで到達することだってできないようにも思います。
ですから、指導する側は「相手の可能性を信じて妥協せず、最後まで相手の”できるようになりたい”という気持ちと本気で向き合う」という自分自身への厳しさ(覚悟)を、指導される側は「自分はどうしてもできるようになるんだ。そのために試行錯誤しながら努力を続けていくんだ」という自分自身への厳しさ(決意)を持ち合わせていたいものです。
ただそこで指導する側が気をつけなくてはいけないのは、あくまで”指導する対象を思い通りにさせよう”としてはいけないということです。
「できるようにさせたい」「いい思いをさせたい」という指導者の思いが、時として指導される側の思いを大幅に飛び越えてしまっていることがあります。あくまで「指導」も「アドバイス」も、それを受ける側が必要としているかどうかが重要です。
受ける側が必要性を感じていないアドバイスをもらっても、その効果は見られません。どんなことでも、受け取る側がどのように受け取るかというのは、その相手の自由です。自分がどんなに有効だと思うアドバイスをしたところで、それを受け取ってくれるかどうかは、相手に委ねるべきなのです。
そこで「言うことを聞かせたい」という思いが少しでも入ると、暴言や体罰、理不尽な指導、洗脳といった、指導者の独りよがりな行動につながっていくように思います。そのような指導を受け続けたところで、初めはできるようになることも多いかもしれませんが、そのうち「誰かに指示されないとできない」「自分の頭で考えて行動できない」という状況を生み出しかねません。
初めは教えることも大事です。でも、あくまで「自分でできるようにするためにはどうしたらいいか」という視点を忘れないようにしたいものです。決して「指導者の言いなりにさせる」ことが目的ではない、ということは(当然のことですが)常に肝に銘じておきたいものです。
|理不尽に「耐える」ではなく、理不尽を「かわす」ことを教える
さて、それでも「世の中は理不尽だらけなのだから、それに耐える術を教えるべきである」という論調も強い気がします。しかしそれでは、社会が理不尽さを容認する体制が変わることはありません。
確かに、世の中は理不尽なことも多いと思います。
最近では、医大入試で女子や浪人生が合格しにくいシステムになっていたことが判明し問題になりました。大学側としてはそれまでの慣例であったり、言い分もたくさんあるのだろうと思いますし、この問題も世の中の理不尽さの氷山の一角であることには代わりありません。
だからといって、その理不尽さを一つ一つ明らかにして、すべてを透明化し、平等にしていくことも、目指すことが理想だとは思いますが、個人や企業の利権などが絡んでいる以上、「すべてを平等に」を謳った共産主義国家が20世紀末に次々と崩壊したことも思うと、完全には無理なことだと思います。
それでは、私たちは「理不尽さ」に耐え続けなければいけないのでしょうか?
それもまた違うような気がします。本当は「理不尽さと闘う」くらいにいけるのがいいのかもしれませんが、「闘うくらいなら」と感じることも実際には多い気もしますし、それも選択の一つとしてあってよいことだと思います。
そこで身につけたいのは、「理不尽さをかわす」力です。
例えば、目の前に理不尽な指導者がいたとします。
理不尽な指導者というのは、多くの場合、自分の言うことを聞かない、思い通りにならない相手に対して強く出る傾向があります。一方で、自分の言うことを素直に聞き、思い通りになるような「手下」のような存在に対しても、強く出る傾向があります。
・・・・え、ではどうすればいいのだろう???
と思うかもしれません。
しかし、理不尽な指導者が苦手としている対象がいるのです。それは「何を考えているのかが分からない」「どう思われているのかが分からない」相手です。
指導者のことを否定するでも、歯向かったりするでもなく、ただ素直に肯定するでもなく、自分の意見をしっかりと持っている人は、強く当たられることが少ないような気がします。それは、「理不尽な指導者」は自分を否定されることを嫌い、自分の指導が素晴らしいものであると褒められたい人が多いからです。
相手がどんなに理不尽な要求をしてきても、自分の心の中までは変えなくてもいいのです。表面上、その指示に従うことがあったとしても、心の中まで従う必要はありません。
「なぜ、この人はこんな言い方しかできないのだろう」
「なぜ、この人はこのようなやり方を求めてくるのだろう」
など、相手の意図や真意を考えてみる中で理解できることもあるでしょうし、全く理解不能なこともあるでしょう。その時には「この人はそういう人なのだ。私の考えとは異なる人なのだ。残念!」くらいに思って、「相手の理不尽さを考えるために自分の大切な時間を使うなんてもったいない」とかわしてしまうことも大切なことだと思います。
理不尽さを押し付けてくる指導者は、よかれと思ってやっていますから、相手にすればするほど、自分の存在意義を感じて、より理不尽を伴って迫ってきます。相手にされなくなることが、一番怖いことなのです。だって、生徒がいなければ、指導なんてできないのですから。
これらのことは、もちろんすべての理不尽さに対応できることではないかもしれません。でも、「誰にも私の心の中まで変えることはできないのだ」ということは持ち続けてもよいのではないでしょうか。
できれば、学校が「理不尽を耐える」ことを教える場ではなく、「理不尽をかわす術」=「自分自身の考えや生き方に自信をもっていくこと」を教える場になっていけたらなと思います。
|おわりに
最近、若い頃に担任をしていた卒業生から「先生は、単に怒り出すんじゃなくて、”みんなの気持ちはわかるけど、こういう理由だからだめ”ということを言ってくれることも多かったから、本気で怒り始めたときも納得できた」と言われることがありました。今振り返ってみても感情的になって怒ってばかりいた記憶ばかりなので、そんな風に感じてくれている生徒がいたことにはびっくりしました。
と同時に、本当の「厳しさ」というものは、自分自身の中で絶対に譲れない基準を示し、それを自分自身が守ろうとすることなのかなと思いました。
どんなに相手に対して厳しさを与えても、相手が絶対に変わるという保証はありません。でも、自分の中に厳しさを持つことで、自分自身の振る舞いを変えることはできます。「自分自身がどうあるか」を追求していく中で、自分自身の振る舞いが変わり、そこから相手に伝えられるものにつながっていくこともあるのだろうなと思います。
自分も若い頃に比べると、だいぶ楽な方に流れがちになってきましたが、もう一度、自分自身の中で大切にしたいものを見つめ直し、「厳しさ」を持って生きていきたいなと思いました。