安心・安全な場であるということ

4月から通っていた青山学院大学社会情報学部「ワークショップデザイナー育成プログラム(WSD)」を無事終了し、先月修了証を頂くことができました。毎週末にある10時~17時の講座に加えて、e-ラーニングの講座やレポート提出もあり、なかなか大変でしたが、普段は出会うことがないだろう様々なジャンルで活動されている方々に出会えたり、仲間と一緒に考え、話し合い、実践し、振り返り、という経験を繰り返す中で学ぶことも多く、かけがえのない時間となりました。

WSDのプログラムを通して学んだことはたくさんありますが、今日は、プログラムのネタバレにならない程度に、今考えていることをつぶやいていきたいと思います。

 

ワークショップって何だ!?

「ワークショップ」の定義は様々あると思いますが、Wikipediaの概要には、次のような説明があります。


ワークショップは、学びや創造、問題解決やトレーニングの手法である。参加者が自発的に作業や発言をおこなえる環境が整った場において、ファシリテーターと呼ばれる司会進行役を中心に、参加者全員が体験するものとして運営される形態がポピュラーとなっている。会場は公共ホールや、スタジオ、美術館やカルチャースクール、ビルの1室、学校の教室を利用するなど様々。

workshopとは、本来「作業場」や「工房」を意味するが、現代においては参加者が経験や作業を披露したりディスカッションをしながら、スキルを伸ばす場の意味を持つようになっている

具体的には、ものづくり講座、音楽ワークショップや演劇ワークショップのような身体表現における学習と作業参加の場や、各種体験セミナー、科学や技術教育、人権教育のような各種教育ワークショップのようなものがある。ヨガや瞑想教室、陶芸教室などの身体で体験する教室や機会にも、この呼称は使われる場合がある。

体験型講座としての「ワークショップ」は、20世紀初頭の米ハーバード大学においてジョージ・P・ベーカーが担当していた戯曲創作の授業 (“47 Workshop”) に起源をもつ。


ワークショップの定義は様々あると思いますが、私がこの数か月間学ぶ中で、今考えている一つの定義は「ワークショップは、あるコンテンツを利用しながら、その場に集ったメンバーが、一人ひとりの意見を共有して互いに納得できるものをすり合わせ、作品をつくりあげたり、合意をつくったりする場」というものです。

知識を一方的に伝達したり、指示通りに行動させたりするのではなく、子どもたちが自らの意思で行動し、物事の意味などを考えながら、自分自身が物事の原因となる感覚をもって、主体的に活動していくことができる場なのだと思います。まさに「アクティブ・ラーニング」の目標としている要素がつまっている、体験的な学習の場だと思います。

 

なぜ、今ワークショップなのか?

「ワークショップ」といっても、様々な形態のものがあります。演劇や音楽、美術など芸術的なものを創作する過程で協働をはかっていくものもあれば、コミュニティづくりや企業でのアイディア発掘、進路開拓など、より具体的なものを実現するための合意形成をはかっていくものもあります。

学校現場で導入するにあたっては、クラスづくり、集団づくりの視点から取り入れることもできますし、生徒一人ひとりが自分の意見を認められたり、役割をもって活動にあたったりすることで、自己肯定感を高め、自立した一人として成長していくためのサポートとして取り入れることもできます。

子どもたちが社会に出ていった時、学んだ知識をそのまま誰かに伝達するのではなく、自分とは異なる考えを持つ相手と対話することで、複雑な問題を解決していくためのアイディアを探していく機会が多いのではないかと思います。そのためにも、「伝わった」時の喜びを感じられて、心から「伝えたい」という思いを掻き立てられるような経験をさせることが必要です。そして対話や共通の経験の中で、「自分が自分であること」と響き合い、自分という存在に自信を持ちながら、同時に他者を尊重し、違いを認め合えるようになっていけたらいいのではないかと思います。

ワークショップは、それを実現することのできる非常に有効的な手段です。もちろん、ワークショップが全てに対して有効というわけではありません。しかし、教員だけでなく、子どもたちの成長を願う大人たちが協力して、学校が拠点となってワークショップという場を実施していけたら、もっと一人ひとりが「自分が自分であること」に対して安心して、のびのびと自分の力を発揮していけるようになるのではないかと思います。

 

まず失敗を受け入れる覚悟を決める!

自分がどんなに良いと思ってやっていることでも、受け取り手によって効果は全然変わるものです。押し付けられていると感じたり、意味を分からずにこなすだけになってしまったりしてはらどんなに良いプログラムでも意味をなさないこともあります。それは、授業でも、ワークショップでも、合奏でも同じことだと思います。

でも、初めから効果があるかないかばかり気にして、本当に自分達がやってみたいことを諦めてしまうのはまた違うのかなと思います。思いきりぶつかって、相手がどんな反応をして、目の前の相手にとって適しているのか、自分達でとことん考えて、それでやってみようと思うことを試せたらいいのかなと思います。

WSDで出会った仲間たちは、自分達がいいと思ったことに挑戦して、失敗してもそこから前向きな気持ちで改善点を考えていけるところが本当にいいなと思いました。単なるダメ出しに感情を揺さぶられず、本質に迫る振り返りができる仲間に恵まれたことは、自分にとっても大きなことでした。

部活も、ミストーンや他の子と違うことを恐れるんじゃなくて、本当にやってみたいことがあったら、とことんそれに挑戦してみればいいんだと思います。 正確だけど、気持ちがこもってない演奏より、多少ぎこちなくても、思いきり自分がやりたい音楽に挑戦してる方が自分はいいと思います。

何か始めてみたいのだけれど、上手くいくかどうかわからなくて、一歩踏み出せないこともあるかと思います。確かに上手くいかないこともあると思います。実際、WSDのプログラムの中でも失敗をたくさんし、様々な方に厳しい指摘を受け、チームで何度も相談をしながらブラッシュアップを試みることもありました。でも、そうやって何度も試行錯誤をする中で見えてきたこともあるし、やっていくうちに向上していくものもたくさんあると改めて感じました。

準備は大切。でも、上手くいかないかもしれないという気持ちでストップをかけてしまうのはもったいないことだなと思います。自分が本当に信じる道であったら、「失敗するのは当たり前」と覚悟を決めて、挑戦してみることも大事なことです。

歳を重ねたり、失敗を積み重ねたりすると、リスクを回避することが先にきて、自分の気持ちに正直になれなくなることもある気がします。それは過去から学んでいる証拠でもあるし、ダメなことではあります。でもリスク回避しか考えなくなって、自分のやりたいことや好きなことが見えなくなってしまったら怖いなとも思うのです。

 

「ダメ出し」をやめてみる。

それでもやっぱり、いきなり失敗を覚悟して挑戦するのは勇気がいることです。

新しいことに挑戦したり、自分を思いきり表現したりするには、安心安全な環境が絶対に必要です。どんなにいいワークでも、安心感がなければ自己開示はできないもの。だからこそ、何をやってみても大丈夫という安心感がある空間をクラスでも部活でもつくる必要があります。

海外で演劇を学ばれた方もプログラムに参加されていたのですが、やはり日本人はダメ出しが好きだということをおっしゃっていました。イギリスでは良かったことを出し合い、その中からもっと良くしていくにはというプラスの意見が出されて、前向きに改善点を洗い出すけれど、日本はとにかくダメ出しが多くて、”振り返り=ダメ出し”になっていると。演劇と音楽、学校での勉強も同じだな、と思いました。

確かに今できていないことを洗い出し、それをできるようにするためにはとうしたらよいかというのも、何かを改善するときには使えるファクターかもしれません。でも、できないことばかり見つめていたら、自信もなくなるし、やる気も失うことだってある。そこに気を付けてアプローチする必要があります。

同じことを考えるにしても、「何でできないんだろう」と考えるよりも、「どうしたらできるようになるんだろう」と考えた方が、自分の可能性を広げられるような気がします。完成形があって、そこから見下すより、できることを積み重ねて夢を見上げていく方が、もしかしたら近道なのかもしれません。

 

体験する」ことを柱に置く。

合奏をやっていると、イメージの共有や、単なるダメ出しにならないようにどんなことに気を付けてやったらいいか、道筋を説明することは大事である反面、「楽器を吹く時間<説明時間」になると退屈させてしまうこともあります。とにかく演奏する中で、個々が気づいて改善していける、吹くことが楽しめる合奏の組み方も考える必要があるなと常々感じています。

その都度振り返って、どうしたら目標に近づけるかを考えて、やることを決めて、試して、…というサイクルを大切にしたいけれど、「上手くいかなかった、もう一回試したい」と思っている生徒に対しては、どんどん試させて、「それでもできない、どうしたらいいか」となるまで待つことも必要なのかもしれません。

上でも書いたように、授業でもワークショップでも大切なのは、生徒(参加者)目線と、安心安全の場を提供すること、なのかなと思います。自分らしさを出していくには、出しても危険のない環境であることが必要だし、参加していて楽しいなと思える空間づくりも必要なことです。その上でただ「楽しませてもらう」のではなくて、「体験する」場の提供が必要になってきます。

それは「楽しむ」は参加者の主観であって、主催側が強制するものではないからです。だからこそ、「体験する」場を提供して、気付きのきっかけを味わってもらうことも時には必要なことなのかなと思います。

つい自分が良いと思っていることがあったときに、相手がそれを受け止めてくれなかった時に「何でわかってくれないんだろう」という感情が芽生えることもあると思います。でも、相手は自分とは別の人間。自分の思い通りに動いてくれるとは限りません。自分の思い通りに参加者を動かすのではなくて、互いに求めているものを探りながら、心地よい環境を一緒に作っていくしかありません。

人の考え方、感じ方はそれぞれ違うものだけど、大切だなと思うことが同じだったら、アプローチがが違っても共通点を見つけて目標に向かっていけるものなのかなと思います。頭でっかちになって、意見が合わないと口論になったり、交じり合わないことはとてももったいないことです。まず体験してみる中で、お互い合意できるところを探していくというのも、何かを生み出していくときには必要なことです。

 

「安心・安全な場」から遠ざかってしまっている現代社会

WSDの実習の中で、講師の方に何度も「参加者にとって、安心・安全な場ですか?」ということを問いかけられました。自分たちのチームにとってこの「安心・安全な場」というのは深く心に刻まれる言葉となりました。

今の子どもたちを取り巻く環境は、決して「安心・安全な場」と言えるものではないと思います。私たちが子どもの頃に比べたら、インターネットが発達していたり、近所付き合いが減って人間関係が希薄になっていたり、人とどのようにコミュニケーションをとっていけばよいのか、実に複雑な状況になっているように思います。

他人がどう自分の事を見ているのか、客観的に受け止めることはすごく大事なことです。他人から見た自分も、自分から見た他人も、結構印象は違っているものです。自分の主観だけでは、何かちょっと曲がった方向に進んでしまうこともあるし、いろんな見方ができることは大切です。でも、そこから気づけて、自分の世界を広げていけることもあれば、「そう見られてたんだ」と悲観的に自分を見るようになることもあります。色々な視点で自分のことも、他人のことも見ることができるのは大事ですが、他人と比較して自分は劣ってるとか、他人の方法に合わせなきゃいけないわけでもないですし、自己否定に走ってしまうこともありません。

今は学校でも社会でも「人からどう見られるか」「人に迷惑かけちゃいけない」という意識を過剰に植え付けている気がしています。もちろん大切なことだし、何でも自分勝手が許されるわけではないですが、はじめからそれを意識しすぎて石橋叩いて渡るより、失敗覚悟で渡ろうとすることも大事なんじゃないかなと思うこともあります。

繰り返しになりますが、安心して自分らしさを発揮できる空間は、安心安全の場である必要があります。それは教員だったり、子どもたちを取り巻く大人がつくるものだったりします。失敗しても誰かがフォローしてくれる安心感のもとで、いっぱい挑戦していけたらいい気がします。そして、私もそんな挑戦を応援できる大人でありたいし、そう思う仲間が増えていって欲しいなと思っています。

 

教員や指導者が“学び”を問い続けること

だいぶ話があっちこっちに行ってしまいましたが、そろそろまとめに入りたいと思います。

ワークショップにおけるファシリテーターと参加者の関係は、教員と生徒という関係はもちろんのこと、奏者と指揮者も同じような関係のように思います。

教員と生徒という関係ではもちろんのこと、アマチュアの団体では指揮者が指導者を兼ねる場合が多いですから、指導者の言うことを聞かねばならぬという雰囲気は少なからずあるように思います。

でも、決してそういうわけでもないはずです。教員と生徒だって、指揮者と奏者だって、お互いやりたいものを出し合い、共通点を見出だした上で、子どもたちにとって面白いもの、自分でやってみたいと思うものをを選び、自ら学びたい、追究していきたいと思う気持ちを煽っていけたらいいのではないかなと思います。

考えてみたら、勉強熱心で生徒からの信頼も篤いベテランの先生は、分からないことがあったり、興味を持ったことがあると、どんな若手の先生に対しても「ちょっと教えてくれる?」というようにたずねてきます。それを見て「あの先生だってまだ学ぶことがあるんだ」と奮い起たされることもあります。本当に、学ぶことを止めないって大事なことです。

「できるようにならないのは指導者の力不足(責任)」ということは肝に銘じてないなければなとは思いますし、できる限りの準備をして生徒の前に立つことは当然のことですが、「力不足だから生徒の前に立っちゃいけない」わけでもありません。誰だって力不足なところがあって、経験を積み、学びながら成長していくものなのです。

大事なのは成長しようという気持ちを持っているかなのかなと。今回WSDを受講して、大人になってからも貪欲に学び、学ぶことを楽しんでいる方々とたくさん出会うことができて、自分自身、本当にたくさんの刺激を受けました。

指導者が学び続け、誰からも学ぼうとする意志を持ち、決して自分の意図通りに相手を動かそうとするのではなく、相手がどうしたら自ら能動的に活動したいと思える環境をつくろうか、常に観察と働きかけをしていくこと。そうした姿勢が、子どもたちにとっての「安心・安全」につながっていくのではないかなと、今は思っています。

これからも、自分自身も学ぶことを止めずに、学ぶ楽しさ、追究していく楽しさを体現できるように頑張っていきたいと思います。

 

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  1. ピンバック: 子どもに「自主性」を演じさせないために考えたいこと | とあるラッパ吹きのつぶやき

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