「ゆとり」は“悪”ではなく、誰にでも必要なもの

先月、次のような記事が話題になりました。

「この部活動は長すぎる!」 ブラック練習、変えさせた父親の執念 全権握る指導者、学校との闘いの記録(withnews)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170117-00000001-withnews-soci

私は「ブラック〇〇」という言い方は好きではありませんし、「学校との闘い」というタイトルも何だか学校全体が悪者になっている気もしてあまりいい気分はしません。部活を100%否定したり、部活が諸悪の根源であるような考え、ただ縮小すればよいという風潮は偏りすぎているとも思っています。でも、今の部活動のあり方はまだ改善できるところはたくさんあると思いますし、しなければいけないと思うところもあります。

ただ今の部活問題は、教員の多忙、学習や生活との両立、根性論や体罰、その他諸々の問題がごっちゃになっている印象があります。何事にも「100%正しい」ということありません。だからこそ、それぞれを紐解いて、子どもたちにとって最適だと考えられる環境を皆で考えていけたらなと思うのです。

今までも何度か記事にしてきましたが、今日は「時間的な拘束」という点について、つぶやいていきたいと思います。

 

「ゆとり教育」について考えてみる

先日、次のような記事を目にしました。

ゆとり教育の理念は正しかった  文科省が目指す21世紀型教育とゆとり教育の類似性
http://best-times.jp/articles/-/4249

 

「ゆとり教育」「ゆとり世代」というと、否定的な目で見たり、あまりよい印象を持たなかったりする方も多いかと思います。確かに、週5日制導入に伴う授業時数の減少に加えて、総合的な学習の時間など「生きる力」を育むための時間確保のために、本来の教科にあった授業内容が削減され、教科書がうすっぺらくなったということも話題になりましたし、結局大学入試に向けては早いうちから受験勉強を始めた方がよいといことで、多くの私学は週6日制を維持したり、授業内容を削減しないことを売り文句にして、受験者数を伸ばしてきた面があると思います。

結局、現行の学習指導要領では、学習内容はだいぶ見直されて、教科書のボリュームも元に戻りました。むしろ、探究活動などが加わって、以前よりも盛りだくさんになっている印象さえあります。センター試験「化学」の出題範囲で考えてみると、1996年までの「化学」の範囲とほぼ同じに戻り、1997~2005の「化学ⅠB」や2006~2014の「化学Ⅰ」と比較すると、一番範囲は広くなりました。(実際、一般入試や個別試験の範囲はそんなに変わりませんが)

この流れだけを見てみると、「ゆとり教育」は失敗だったととらえられるかもしれません。しかし、文科省が現行学習指導要領の基本的な考え方としてあげていることは、次の通りです。

(文部科学省HPより)

ざっくり言ってしまうと、「ゆとり教育」の中で育もうとしていた力をより高めていくためにも、土台となる知識や技能の習得も大切にすることが必要であり、そのためには授業時数の確保も大切であるととらえることができます。

現場で授業をしたり、合奏をしたりする中で思うのは、「教えてしまった方が早い」ということです。教師が一方的に知識を伝えたり、やることを決めてやらせたりした方が、手っ取り早く「試験の点数」「試合やコンクールの結果」などには結びつきやすいものです。でも、それでは社会に出ていったときに求められる「自分で考えて行動する」ということとはかけ離れた「受け身の姿勢」を生み出しかねません。

そこで、授業の中でもアクティブ・ラーニングと呼ばれる生徒が主体的に学習活動を行うことを推奨する動きがあるわけですが、実際にやってみると、これが結構時間がかかるのです。

当たり前のことですが、生徒は必ずしも教師が予測した通りに動いてくれません。「ここに気付いてほしい」という学習課題があったとしても、議論がなかなか進まなかったり、予期せぬ方向に進んでいくこともあります。それは新しい発見にもつながりますし、本来学習するということはそういう試行錯誤の中で何かを見つけていくことだとも思いますが、常に気がかりになるのは「授業進度を保証した上で、いかに生徒自身が考えたり、活動したりする時間を生み出せばよいのか」ということです。限りのある授業時間の中で、何を伝え、何を考えさせるのか、それが教師の力量と言ってしまえばその通りですが、アクティブ・ラーニングを遂行していくためには、ある程度の時間的なゆとりもないと(準備する教員の時間的・精神的ゆとりも含めて)、なかなか難しいという現状もあるような気がします。

 

「ゆとり」は“悪”ではなく、誰にでも必要なもの

「ゆとり」は決して楽をしたり、甘くしたりすることではなくて、自分で考えて行動するためには必要なものだと思います。それは大人も子どもも同じです。

自分が今できることより、ちょっとだけ難しいことやキツいことに挑戦し、根気よくやってみると、実力は伸びていくものです。それは決して楽なことではありませんが、精神的にも時間的にもゆとりがなければ、挑戦したり、創意工夫しようとするどころか、目の前のことを片づけるので精一杯になる気がします。

やるべきことを詰め込んで、それを画一的にこなすことで、一定の土台は築けるかもしれないし、そういう時期もあってもよいかもしれません。ただその上で、身に付けた知識や技術を活用する力を磨いていくには、追い込むでもなく、放置するでもなく、失敗を責めるでもなく、いろいろ試す時間が必要です。

知識も技術も大事なもの。考える力、表現する力を磨くにも、それらの土台がなければ途方にくれてしまいます。ただ、教えられることに慣れてしまうと、自分で試すにもどうしたらいいかわからなくなってしまいます。

成長を急がせる必要はないし、一人ひとりにあった試行錯誤の過程も大切にすることで、一人ひとりが自信を持って歩んでいけるような、そんな学校現場でありたいなと思います。

 

冒頭の記事もそうですが、部活でも最近は「休養の大切さ」が叫ばれるようになってきました。昨日も次のような記事が出ていました。

【変わる部活 積極休養の強豪校】高校スポーツ界で、定期的に休養日を設ける学校が目立ってきているという。指導者や選手は休養日をどのように考えているのか。 https://t.co/RSn1sFY4ku

— Yahoo!ニュース (@YahooNewsTopics) 2017年1月31日

実際は積極休養とありながらも、休みは週1回月曜日で、結局学校には週7日来ているわけですし、自主トレは自由って、そんなに積極休養ではないような気もしますが、生徒が自分で時間の使い方を考えたり、ただがむしゃらに練習すればいいわけじゃないという考えのもと、どう力を伸ばせる練習を的確に組んでいけるかという視点は大切だと思います。

運動部はスポーツ科学的な視点から、休養の大切さがより科学的に指摘され始めています。これに対して文化部、とりわけ吹奏楽部は合奏中常に全ての楽器が演奏しているわけでもないので長時間活動できてしまうところもあると思いますし、「じっくりとよい音楽づくりを」と追究し始めたら、どうしても時間がかかるものです。それは痛いほど分かります。

ただ、たまに部活から手を放すことも大切なのかなと思います。もっと力を高めたいと思う子からは「もっと部活をやりたい」「そんなことではコンクールに勝てない」などという意見があがってきそうですが、私は逆に部活の休養日をつくることで、全体として「もっと部活をやりたい」と思う気持ちを強くして結束力を高めることも可能だと思いますし、休養日に普段できないことにしっかり取り組むことで、普段の練習の集中力を高めることもできると思います。また、音楽や楽器が好きでもっとやりたいと思う子は、演奏会やレッスンに足を運ぶこともできるでしょうし、高校生以上だったら一般の楽団に入ってまた別の視点から音楽に向き合うこともできると思います。

このように思うのは、自分自身も社会人バンド、社会人オケに入って、決して毎日練習することができるわけではないのに、自分たちなりに頑張って練習して、楽しく音楽を続けている仲間がたくさんいるからです。多くの場合、社会人バンド(オケ)の練習日は休日にあるわけですから、参加しているメンバーのほとんどは、休養日(=自分で使い方を選べる日)に、好んで音楽をやることを選んで集まってきているわけです。中には毎日仕事が終わった後にカラオケボックスで練習という熱心な方もいらっしゃいますが、必ずしもそういう人ばかりではなく、平日は自分の仕事をしっかりやって、週末は思い切り音楽を楽しむ!というようにメリハリをつけてやっている人もたくさんいます。

もちろん社会人楽団にも温度差の問題もありますし、休みが増えたからと言って、必ずしも練習日に皆がそろって集中して練習に取り組めるかといえば、そうでもありません。毎日コンスタントに活動がないことで、活動が習慣づかず、逆にモチベーションが下がってしまったりすることも残念ながらあることです。

しかし、より活動を活発にしていくためにも、みんなでよりよい音楽を目指していくためにも、物理的・精神的なゆとりは絶対に必要なものだと思います。「ゆとり」も「休む」ことも、決して悪ではありません自分で考える時間、自分とじっくり向き合う時間という意味で、日常生活からちょっと離れる時間も大切なのだと思います。

 

まとめ

ただゆとりをつくったり、ただ時間をかければよいという話ではありませんが、難しい問題を解くためには、面倒だなと思っても、考えたり、手を動かしたりする必要はあります。放っておいて、いきなりひらめいた!ということは稀なことです。誰かに答えを教えてもらうこともできますが、それは自分の力にはなりません。

初めは誰かにやり方を教わったり、答えがあるものを使って、やり方を身に付けていくことも大事な過程。いきなり難問を解こうと思っても途方にくれるだけです。本当に自分の力を磨こうと思ったら、まず焦らずにできることからやってみること。一つできたら自信につながるし、実力になっていくはずです。

本気で難題をクリアしたかったら、面倒な手順もきっと好奇心や探究心を持って取り組めるはず。そこに楽しさもある気がします。やるか、やらないかは自分次第。そこに他人による強制力はありません。やってみようと思ったら、手伝ってくれる人やツールがあっても、最後は自分でやってみなければ、本当に心から面白い、楽しいと思えることはありません。

生徒が自分の力で何かできるようになるためのサポートをするのが教員の役割。それは、精神的なものかもしれないし、具体的にやり方を伝授することかもしれないし、生徒自身の気づきを促すことかもしれません。威圧して強制するだけでは、本当に生徒の力を育てることにはなりません。それには、教師が生徒を管理することから離れて、生徒が自分で自分の時間の使い方を考えて行動する時間も必要なのだと思います。

子どもたちがゆとりを持って、それぞれの力を伸ばしていけるように、そして大人もゆとりを持って子どもたちと接することができるように、時間の使い方について、社会全体で考えていけたらなと思います。

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