先日、新型コロナウイルスの影響で、4月に予定していた部活の定期演奏会が中止になることが決まりました。生徒たち、特にこれで引退を迎える高2の生徒たちにとって、この決定はどのように受け止められるのか、そもそも受け止められるものなのか。
そのように考えている自分自身を見つめてみたとき、気づいたことがあります。
前回のブログでは、職員室に入るときの自分の在り方について観察してみることで、「自分自身で安心安全の場をつくる」ということを考えてみましたが、今回はその続きとして、「自分の在り方を選択する」ということについて考えてみたいと思います。
|厳しい事実を伝えようとするときに起きたこと
定期演奏会が中止になったということを、生徒たちに伝えなければいけない日、朝から胃がムカムカして、明らかに緊張感が体中を走っていて、心臓はバクバクいっているし、「嫌だなぁ、、」という負の感情で自分自身が満たされているような状態でした。
身体の状態をみてみると、まず首をギュッと固めていることに気づきました。体全体をかため、視線を下に向け、周囲の視界をわざと遮っているかのようでした。
完全に、緊張と不安と危険を感じている状態。
まさに前回のブログで書いた”職員室に入る前のヤバイ状態”、いやそれ以上に”もう絶対だめだ〜〜!!”と感じるくらいの状態になっていました。
よし、まずは自分の在り方からだ。
在り方が変われば、気持ちも少しはついてくるだろう。
そう思った私は、
頭が自由に動けて、
身体全体がついてきて、
目はどこでも見ることができて、
頭上には大きな空間が広がっていって、
とこの前の実践を活かしてやってみました。
確かに視界も広がり、何だか気持ちも少し晴れるような感覚がありました。
いつもだったら、「これで今日もなんとかいける」と思えるのですが・・・
どうしてもそれが逆に居心地が悪くて、「この状態でいたくない」と叫んでいる自分が、必死に声をあげているのを感じました。
なので、そこからはいったん、意図して”固めている自分を許す”ことにしてみました。すると、決して気持ちが晴れることはないのですが、今はこちらの方が自分らしいし、こっちでいたいなという想いに添うことができて、少し楽になりました。
|心から信頼の置けないことを、身体は信じてくれない
いつもなら、身体の在り方が良くなることで、気持ちも少し前向きになれるのに、なぜ今回は、そこまでの居心地の悪さを感じたのでしょうか。
1.まだ自分自身が置かれている現実を受け入れることができていない
これだけ流行が懸念されているし、生徒たちやお客様の健康・安全を守るためにも中止はやむを得ないということは頭で理解しているけれど、これで引退する生徒たちのことを考えると、まだ「受け入れたくない」という思いが残っていて、自分自身が完全に事実を受け入れられずにいたのではないか。
2.生徒たちの反応が怖い(受け止められるのかに対しての不安)
事実を伝えたところで、生徒たちがどのような反応をするのかは想像できたとしても、実際にどうなるかはわからない。取り乱す子、泣き続ける子、怒りだす子もいるだろう。一方でホッとする子もいるかもしれない。一人ひとり感じ方も反応も違うだろうし、一人の中にもいろんな感情が渦巻くこともあるはず。そのいろんな感情を果たして自分は受け止めることができるのだろうか。
このあたりのことが自分の中で消化できていない中で、何だかわからないけど前に進もうとすることに対して、「危険だからやめなさい」と生物の生存本能が叫んでいたのかもしれません。
自分自身が本当に自分のことを信頼していなければ、本来の自分でいることが辛く感じることもある。
アレクサンダー・テクニークをつかって、意識的に視野を広げ、本来の自分でありつづけようとすることが、辛いと感じたり、居心地が悪いと感じたりすることもある。そんな自分のことも許してあげて、身体を固めて守ってあげることも、時には必要なのかもしれないなとその時改めて思いました。
それと同時に、どんなに自分の使い方、在り方が”良い状態”になったとしても、目的や自分の望むことが見えていなかったら、身体も心もついてこないものなのだということを痛感しました。
|自分の気持ちがどこにあるのかを、整理してみた
だからといって、自分自身がこのような状態で生徒と対するのも、どこかでよくないなと思う自分がいました。
クラスの生徒たちに学校の決定を伝えたのは朝のことでしたが、部活の生徒たちに直接定期演奏会の中止について話をするのは放課後だったので、空き時間を使って、何をどうやって伝えようかということを具体的に考えてみました。
私は思いつくままにしゃべってしまうところがあり、ある程度は話す内容についてストーリーを頭の中で組み立てておかないと、肝心の伝えたいことがうまく伝わらないことが多いので、とりあえず部内通信「とあるラッパ吹きのつぶやき」に伝えたいことをまとめてみることにしました。
文章だと、何回も書き直すことができるし、自分の書いた文章を客観的に見ることで、本当に伝えたいことを読み取ってもらえるか、冷静に考えることができるからです。
そうして出来上がった部内通信。
書きながら改めて気づいたことがたくさんありました。
- 生徒にもいろんな思いを持つ子がいるんだろうな
- 自分自身の中にもまだ戸惑う気持ちがあるんだな
- 今後どのように収束していくかわからない中で、判断をギリギリまで引きずって結果的に中止になるよりも、「中止」ということを前提として、その先に何がやれるかを考えていった方が建設的ではないかな
- でもやっぱり、1年間の集大成でもあるし、5年間頑張ってきた高2の引退の演奏会だから、何らかの形で実現してあげたいな
- 東日本大震災のときも、活動禁止・定演延期になったけれど、あの時の生徒たちはどんな思いだったかな
- メンバーがそろって、楽器があって、練習する場所があって、発表できる場所があって、聴きに来てくださるお客様がいて、裏方を手伝ってくださる方々がいて、ようやく演奏会って迎えられるんだったな。当たり前のことではないんだったな
自分の考えていたことが明確になってきたことで、少しだけ緊張感や不安感が消えた気がしました。
また、「何とか前向きに」と意地を張っていた私に、一緒に顧問をしている先生が次のように声をかけてくださいました。
”無理に前向きに
なろうとする必要はない。前向きにならない気持ちと向き 合いながら日常生活を過ごしていく中で、生徒たちが後で 振り返ってみたときに、この時のことが糧にできたらいい のでは”
その言葉を聞いて、自分の中に次のような思いがわいてきました。
そうか、私はどうにかして子どもたちに前を向いてほしいと思いすぎていたのか。
まずは、一人ひとりが事実を聞いて感じたこと、湧いてきた思いにただ寄り添ってあげればよいのではないか。
このような過程を経て、自分自身の考えが明確になり、どのように生徒と向き合えばよいかイメージを持てるようになって、はじめて放課後に生徒たちと向き合う覚悟が決まった気がしました。
同時に、ちまたでは「こうするんだ」と号令をかけて、子どもたちを無理矢理にでも同じ方向を向かせようとする教員が問題になっている中で、私も一歩間違えればそのようになりそうだったわけですが、こんな風に考えて助言してくださる先生と一緒に顧問をやれて幸せ者だな、と嬉しい気持ちになりました。
|自分自身の考えが明確になって改めて、自分の在り方を問う
いよいよ放課後。主顧問の先生がまずお話をされ、次は自分が話す番です。前に一歩踏み出そうとするとき、改めてアレクサンダー・テクニークを使ってみようと思いました。
頭が自由に動けて、
身体全体がついてきて、
目はどこでも見ることができて、
頭上には大きな空間が広がっていって、
と自分自身に言ってみると、下向き、後ろ向きな気持ちから解放されて、視界も広がり、伝えたいことが見えてきました。現象としては朝と似たことが起きたわけですが、朝の居心地の悪さは、もうほとんどありませんでした。
それでもやっぱり、部員の生徒たちを目の前にすると思いがたくさんこみ上げてきて、話し始めてすぐは涙をこらえるので必死でしたが、自分の考えが明確になっていたことで、少しだけ自分の在り方についても意識することができたように思います。
実際とても意識的に自分自身に方向づけができていたかといえばできていなかったかもしれません。それでも、自分が話している間の生徒たち一人ひとりの表情が目に浮かぶくらいには、視野を広く持ち、生徒たち一人ひとりとつながろうと思って自分をそこに置き続けることはできたのではないかなと思います。
- 声を上げて泣いている生徒
- 涙を必死にこらえてこちらの話を聞いている生徒
- ほっと安堵の表情を浮かべている生徒
- うなずきながら話を理解しようとしてくれている生徒
- 放心状態の生徒
- やたらにハイテンションになっている生徒
表情を見ていただけでも、たくさんの受け止め方があったのだなと感じました。でも、それでいい。受け止め方は相手の自由なのです。でも、いろんな思いで受け止めてくれたということは、何かしら自分が言いたいことは伝わってくれたのかなとも感じました。
今回のことで強く思ったのは、自分自身が本気で向き合おうとしているか、何を伝えたいと思っているのか、それは言葉だけでなく、自分自身の在り方にも大きく表れてくるということです。
だからこそ、何かを教える立場にいたり、そうでなくても相手に大切なことを伝えようとするときには、まず本来の自分に嘘をついていないか、本当の気持ちを抑え込んでいないかといったことに着目し、自分自身の在り方がどうなっているかということに敏感でいる必要があるなと改めて思いました。
自分自身はどこにいてもいい。
動いていても、止まっていてもいい。
固めていても、とけていてもいい。
いろんな可能性の中で、自分自身が今したいことのために、必要な選択を、意識的に行っていくことで、実現したいことに近づいていくものなのだと思います。
これからもまだいろいろな試練が続くように思いますが、生徒たちのためにも、まずは自分自身の在り方をていねいに観察し、無理なときは無理な自分も許してあげながら、自分の気持ちややりたいことに正直に進んでいきたいなと思います。
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