ここ数年、アレクサンダー・テクニークの授業にコンスタントに出席できておらず、いったんお休みを頂くことにしたのですが、この秋から以前お世話になった先生方が「Self quest Labo」という学びの場をつくられたということで、改めて一からゆっくり学び直してみようという決意をしました。
今日はその課題でもある「アレクサンダー・テクニークの基本」について、先日出席した授業で考えたことをもとに、これまでに学んできたことを振り返ってみたいと思います。
|アレクサンダー・テクニークの基本とは?
アレクサンダー・テクニークというと、真っ先に思い付くのは「頭と脊椎の関係」です(これについてはまた別レポートを書きたいと思います)。でもそれと同じくらいに大切なことに「心身同一性」、つまり「心と体は互いに関係し合っている」ということがあげられるかと思います。
先日の授業で、まず初めに「人生において大事にしたいもの」について考える機会がありました。
自分は、
①健康
②人
③仲間
④音楽
⑤快適さ
⑥実験
⑦自分らしさ
という答えをひねり出したのですが、他の方の発表を聞いたり、自分でなぜこのキーワードを選び、この順位をつけたのかを発表し、フィードバックを頂く中で、自分に対してだけでなく、生徒に対しても「コミュニティの中で自分がどう生きるか」ということを重要視していることに気がつきました。
決められたコミュニティの中では、協調性ももちろん大切ですし、つい大きな声に巻かれがちになったり、人に流されたり、自分を見失いがちになったりすることもあると思います。
私自身も、「自分がどう生きるか」と思ったときに、まず人との関係を重視するあまり、本来自分がどうしたいのかが分からなくなっていることもあるなと感じました。
今回の授業を通じて改めて考えたことは、自分が居たい場所や大事にしたいものを意識的に選択しているということを常にどこかで認識して、集団の中でも「自分」という存在を忘れないであげることは何よりも大切なことだということです。
まず、自分が「どうしたいか」がなければ、アレクサンダー・テクニークがどんなに良いツールであったとしても、役立てる場所がありません。
「なぜアレクサンダー・テクニークを学ぶのか?」ということと、「私は今何をしたいと思っているのか?」ということは常にリンクしていて、そこからしか学びは始められないなということに、改めて気づきました。
|なぜ私は、アレクサンダー・テクニークを学び始めたのか?
私がアレクサンダー・テクニークの教室に通い始めたのは2014年1月、教師養成コースに入ったのは2015年1月ですから、あまり集中的に授業には出ることができてはいませんが、学び始めてからかれこれ5年くらいになるでしょうか。
きっかけは、「燃え付き症候群」のような感じに陥り、心身の不調に襲われたことが原因だったように思います。
20代の頃は仕事も趣味も全力で頑張ってきて、それなりに満足のいく状態でしたが、30代に入ってある日突然糸が切れてしまったかのように何もできなくなる日が続くようになりました。
でも自分の中のどこかに、それまで頑張っていたことができなくなることは嫌だ、悔しいという思いは残されていました。ただ、仕事をやろうとしてもうまくいかないし、楽器を吹こうにも思うように吹けないし、八方塞がりのような状態に陥っており、何となく「自分はもうダメなのかな」と思うようになっていました。
そのようなときに出会ったのが、アレクサンダー・テクニーク教師であるバジル・クリッツァーさんの「徹底自己肯定練習法」という書籍でした。自分にとってはもちろんのこと、生徒たちを見ていても「自己肯定感が低い」と感じることが多かったこともあり、これを学んでみんなが幸せに音楽がやれたらいいなと、漠然とですが思った記憶があります。
それまでもアレクサンダー・テクニークに関わる書籍は読んだことがあったのですが、これをきっかけにアレクサンダー・テクニークに関係する様々な本を読み漁るようになりました。そして、一度きちんと学びに行ってみようと思うようになりました。今思うと、自分を再生させるために、藁にもすがる気持ちだったのだと思います。
|アレクサンダー・テクニークを学んで変化したこと
アレクサンダー・テクニークを学び始めて、頭と脊椎の関係を考えるようになることで、同時に自分自身のからだについて興味を持つようになりました。
それまでの自分は、仕事をする時も、楽器を吹く時も、とにかくがむしゃらに体力勝負で、根性だけで何とかしようとしてきたように思います。しかし、アレクサンダー・テクニークの学びを進めていくにつれて、普段から自分のからだの状態を観察したり、どのようにからだを使っていくと、効率よくやりたいことができるのかということを一旦考えるという習慣が少しずつ身に付いてきました。
一番大きかったのは、20年続けていて、もうこれ以上はなかなか吹けるようにならないのかなと少し諦めかけていたトランペットの演奏に、少し可能性を見つけることができたことでしょうか。呼吸や楽器の持ち方、演奏に対する考え方などを改めて見つめ直すことで、確実にできるようになったことが増えました。そして、改めて根本から音楽やトランペットの技術を学ぶことで、もっと自分が奏でたい音楽に近づいていけるのではないかという目標もでき、10年ぶりくらいにトランペットの個人レッスンを再開しました。アレクサンダー・テクニークの学びとトランペットのレッスンが相乗効果となって、自分自身の可能性を楽しむことができるようになったのは、一番大きな効果だったように思います。
できるようになることが増えたり、できるかもしれないという可能性が見えてくると、人はそれを実現するために何ができるかを真剣に考え、その欲求を満たすために努力をすることができるようになるものだと痛感しました。
|「自分の今の望みは何だろう?」という問いを持ち続けること
いわゆる「アレクサンダー・テクニーク」の発見者であるF.M.アレクサンダー氏も、俳優として活動していたときに声が思うように出なくなり、何とかして声を出せるようになろうと思考と実験を重ねて、「アレクサンダー・テクニーク」を発見したと言われています。
授業での先生方のお話や、F.M.アレクサンダーの著書を読み、その人生を知るにつれて、何事も順調に進んでいるときにはなかなか気づくことができなかったことでも、じっくり自分自身と向き合い、自分が「こうなりたい」という思いを実現させるのだという強い思いのもとに研究と実践を続けていくことで、何かをつかむことができるものなのかもしれないと思うようになりました。
しかし、自分自身の意識のコントロールは意外と難しいものです。どうしても、それまで積み上げてきた習慣というものは、それなりに理由があって積み上げてきたものなだけに完全に手放すことはできませんし、意識していないと、不意に顔を出し、自分自身を支配するものに変わってしまいます。
もちろん、今まで積み上げてきた習慣がすべて悪いことではないですし、また別の場面になったら必要になるものかもしれません。でも、その習慣に自分自身が支配され続けてしまうと、せっかく意識的に改善できたことも、すぐにできなくなっていまいます。
私も、アレクサンダー・テクニークの学びを活用することで、だいぶできることが増えたお陰で、気づいたらまた元のように仕事ができるような状態に戻りました。以前とは違って、無茶苦茶な無理はしなくなりましたし、周りの人に対しても受容できる気持ちは増えた気もしますが、やはり同じように仕事を続けていく中では、目の前にあることをこなすことに精一杯になってしまい、「私は何がしたいのか」という自分自身の中にある「望み」になかなか気づいてあげられなくなるようになりました。
自分の中にある「望み=(やりたいこと、なりたい自分)」が分からなくなってしまうと、アレクサンダー・テクニークをどのように使おうかという意識も芽生えなくなってきます。自分が授業になかなか足が向かなかったのは、今考えてみると、単に忙しかっただけではなくて、皮肉にも仕事が順調に進むようになったことで目の前の課題に追われるあまり、自分自身がやりたいことやなりたいことが見えなくなってしまったからなのではないか、と感じました。
初めにも書きましたが、アレクサンダー・テクニークの基本は、「頭と脊椎の関係」であると同時に、「自分がどのようになりたくて、どのようなことを実現したくて、そのためにアレクサンダー・テクニークをどのように使っていくのか」ということなしには語れないような気がします。
近年、教育界では「アクティブ・ラーニング」という言葉が独り歩きしていますが、アクティブ・ラーニングを授業に取り入れる手法は様々あっても、肝心の「生徒が主体的に取り組む」という視点を忘れてしまってはどんな手法も効果がありません。受け身で教えてもらったとしても、自分の望みとリンクしていなければ、どんな素晴らしい手法も意味をなしません。
同じようにアレクサンダー・テクニークも、まず個々が「何をしたいのか」「どうなりたいのか」という具体的な目標をもっていないと、役立てることは難しいように思います。「アレクサンダー・テクニークは効果がない」と言っている人の多くが、「アレクサンダー・テクニークを教えてもらったら何でもできるようになる」という受け身の姿勢なのではないか、とも思います。
アレクサンダー・テクニークを学ぶ上で大切なこと、それは常に「自分自身が何を大切にしたいか」を思い描けていることだと、初回の授業を通して改めて強く思いました。
|アレクサンダーテクニークを使うことは、自分自身で選択できる
では、アレクサンダー・テクニークは常に意識して使い続けなくてはいけないものなのでしょうか?
それもまた違うのだと思います。
もちろん、自分自身が実現したいことのために、アレクサンダー・テクニークを使うことで実現可能になることはたくさんあると思います。
しかし、そもそも動物が体を固めたり、緊張したりするという行動は、「危険から身を守る」という意味合いも強く含まれています。
本当に身の危険、心の危険を感じた時には、「からだを固めてもいい」「心を固めてもいい」という選択肢をとってもいいのです。
アレクサンダー・テクニークのもう一つの基本は、「使うことを自分自身で選択できること」だと思います。
どんなことでも「~しなくてはいけない」ということはなくて、自分が今行っていることは、その瞬間瞬間で自分自身が選択して行っていることです。自分自身の行動にはいろいろな可能性があります。「Aという選択肢も、Bという選択肢も、Cという選択肢もあるけれど、今はBを選んでいる」というように、自分自身が明確に選択していくことで、より自分自身がやりたいこと、なりたい自分に近づいていけるものだと思います。
アレクサンダー・テクニークは万能であり、万能ではないツール。だからこそ、学びを深めて、自分が使いたいと思う時に選択的に使っていけるように、また一から頑張っていこうと思います。
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