「頑張らなきゃ」という気持ちは黄色信号!

このところ、いろいろな本番で生徒や卒業生、後輩達が楽しそうに演奏しているのを見て、純粋にみんなとラッパ吹きたいな~と思うことが多いです。

そんな私ですが、一時期は音楽を聴くのも、ラッパを吹くのも何だか億劫になってしまって、ただ義務感やプレッシャーに打ち勝つためだけに「音楽することを頑張っていた」こともありました。

なぜ、そんな風になってしまったのか。

そこで今日は、楽器や音楽をやる上でのモチベーションと、自分と音楽との関わり方について考えてみたことをつぶやいてみたいと思います。

 

「頑張らなきゃ」という気持ちは黄色信号!

一時期、スケジュールを詰め込みすぎて、演奏自体が消化不良になったり、多方面に迷惑をかけてしまったりしたことがあります。

スケジュール管理の甘さ、と言ったらそれまでなのですが、つい人から楽しそうな本番に誘われたり、勉強になりそうだなと思う講習会やレッスンなどがあったりすると、後先考えずに「何とか調整してやってみよう!」という気持ちだけで突っ走っていました。

もちろん、そこでいろいろな方との出会いがあり、自分の視野も考えも広がっていき、それ自体は楽しかったし、とても大切な時間だったと思います。

ただ、「楽しい」と思ってがむしゃらに続けていくうちに、自分のキャパをかなりオーバーしてしまって、いつしか「頑張らなきゃ」という思いに自分が押し潰されそうになってきました。

確かに、どんなに辛くても頑張って壁を乗り越えることで、自分自身を成長させていくことができるという面はあります。

しかし、「楽しい(やりたい)から頑張ろう!」と思ってやっているのか、「頑張らなくちゃダメだ」と思ってやっているのかでは、自分自身にかかるプレッシャーの大きさも、向上するための思考力もだいぶ違うものです。

 

例えば、「楽しい(やりたい)から頑張ろう!」と思っている時は、

  • 頑張ることが負担にならない
  • もっと楽しむための工夫ができる
  • 人から素直に学ぼうという気持ちになる
  • 余裕を持って人と接することができる
  • 満足感を得やすい

という傾向があるように思います。

 

一方で、「頑張らなくちゃダメだ」と思っている時は、

  • どんなに頑張っても不安になる
  • 何をしていいのか分からなくなり、どれも中途半端になる
  • 人と比較して、自分がダメなところにダメ出しをし始める
  • 人に対しても厳しく当たるようになる
  • 不満を感じやすくなる

という傾向が強くなるような気がします。

 

このように、同じ「頑張る」という気持ちも、「~しなくちゃ」という義務感に変わってしまうことで、自分を向上させていくプラスの気持ちから、自分を縛り付けて苦しめるものに変化してしまうこともあるかと思います。

「頑張らなきゃ」と思い始めたら、黄色信号。

そう思って、一回立ち止まってみることも大事かもしれません。

 

義務感に感じるようになったら、ちょっと立ち止まってみる

では、「義務感」はどこから生じてくるものなのでしょうか。

先日、札幌で小学校教員をされているN. Furutaさんが次のようなツイートをされていました。

このように、知らず知らずのうちに「こうしなければいけない」「こうあるべき」という形にとらわれてしまうことはよくあることです。それが、「義務感」に感じる大きな原因だと考えられます。それは音楽の練習でも、勉強でも、仕事でも、ブログ書くのでも、全て共通している気がします。

「こうしなければいけない」「こうあるべき」という形にとらわれてしまっているとき、その根底には次のような気持ちがあるように思います。

  • 周りはみんなやっている
  • 自分より優れている人はやっている
  • 前にこうやってみたら上手くいった
  • 前に上手くいった人がやっていた
  • 先生(や親、先輩、上司など)にそのようにやれと言われた

このように考えてみると、「こうしなければいけない」「こうあるべき」という概念は、他人との比較や、他人から言われたこと、過去の成功体験が元になっていることが多いように感じます。

もちろん、最初は「こうした方がよい」という型にしたがって物事を始めてみることも大事なことです。その方が近道になることもたくさんありますし、法律やルールなど、社会の秩序を守るために守らなければいけないこともあります。音楽でも、「二分音符は2拍音を伸ばす」というように、最低限守るべき楽典も存在します。

しかし、私たちが普段取り組もうとしていることに、「こうしなければいけない」ということが事細かに決まっているということは、そんなに多くはないはずです。ましてや他人が上手くいった方法だからといって必ずしも自分に当てはまるわけでもないですし、過去の事例が今の自分にも当てはまるとは限りません

 

今の自分がやるべきこと。

もし、それがあるとするならば、「本当にやりたいと思うことをやってみる」ことなのかもしれません。

 

 

基礎も技術も「やりたいこと」のために磨いていくもの

楽器の練習でも勉強でも、「基礎は大切」とよく言われるものです。やっていることが「義務感」に感じるとき、「基礎をやらなきゃ」「基礎がないからダメなんだ」と思っていることも多いような気がします。

しかし、「基礎」とはいったい何者なのでしょうか。デジタル大辞泉では次のように解説されています。

き‐そ【基礎】

  ある物事を成り立たせる、大もとの部分。もとい。「基礎がしっかりしているから、上達が早い」「基礎を固める」「基礎知識」
  建造物の荷重を支持し、地盤に伝える最下部の構造物。地形(じぎょう)・土台など。
[用法]基礎・基本――「中国語を基礎(基本)から勉強する」「生活習慣の基礎(基本)を身につける」などの場合は相通じて用いられる。「社会繁栄の基礎」「会社の基礎を固める」などは「基本」では言い換えられない。◇「基本」は物事の根本、よりどころとなるものをいう。「基本法」は他の法律のよりどころとなる憲法などをさす。「法律の基礎」というと、法を支える考え方・思想の意味が強い。

 

確かに、英語の長文問題を解こうとした時、単語がまったく分からなかったら、いちいち辞書を引きながら意味を調べていかなければならないですし、文法が分からなかったら、意味を違えて理解してしまうこともあります。音楽でも、全く音の出し方を知らなかったり、運指を知らないのに曲を吹くことはできません。

そういう意味では、物事の「基礎・基本」となることをしっかり身につけることは、何をするにしても大切なことです。

しかし、どんなに技術を磨こうとしても、基礎を固めようとしても、その先にやりたい音楽がなかったら、どこかで行き詰まる気もします。

  • 呼吸法ができれば楽器は吹けるでしょうか?
  • ロングトーンは何のためにしているのでしょうか?
  • 音階が吹けるようになったら、何ができますか?
  • タンギングは速くできればいいのでしょうか?
  • 指が速く回ることは、何の役に立ちますか?

上にあげた質問に対して、具体的な曲(音楽)をイメージして答えられる人は、基礎という土台のもとに、音楽をどう表現していこうかというところまで考えることができているように思います。逆に「なんでやってるんだろう??」とか「やれって言われているから」と思った人は、せっかく基礎を磨こうとしている時間が無駄になってしまっているかもしれません。

基礎はあくまで「何かをするための土台」です。基礎がしっかりしていることは大事なことでもありますが、基礎だけができていても、石垣だけが立派なお城のように本来の目的を果たすことはできません。本来の目的(=奏でたい音楽を実現していくこと)を見失った状態で、ただ基礎を磨かなくては、固めなくてはと思って練習していると、どこまでやればいいのかが分からなくなって、迷路に迷い込んでしまうこともあるような気がします。

逆にやりたい音楽、吹けるようになりたいという曲、こう奏でたいという想いがあると、基礎も技術も自然と磨きたくなるものです。

それは、「実現したい音楽」があるときに、それを実現するための具体的な手段としての基礎や技術がなければ、実現不可能だからです。「やりたい」「吹けるようになりたい」というイメージが具体的であればあるほど、それを実現するための方法を探したくなるし、義務感からではなく、自分の心からの欲求として、「もっと練習したい」「力を磨きたい」という思いが湧いてくるように思います。

先日、アレクサンダー・テクニーク教師でホルン奏者のバジル・クリッツァーさんが次のようなブログを書かれていました。

基礎練習は大切。でも、それが義務感になって、音楽の本来の楽しみを感じないようになったら要注意です。いつも「奏でたい音楽」が先にあることを意識して、基礎練習も楽しんでやっていきたいものです。

 

 

自分に合ったペースで、本番の予定を入れてみる

「奏でたい音楽」が分からないとき、手っ取り早くイメージする方法は、「本番の予定を入れること」だと思います。多少無理してでも本番の予定を入れて、どんどん挑戦していくことで、自分一人でやっていたのでは気づけないところに目を向けられたり、いろいろな音楽や人の考え方に出会えたりする中で、具体的な目標を持って音楽と向き合うことができるようになると思います。そういう意味でも、本番の予定を入れてみることは、「楽しく音楽をやってみる」ことにつながっていく気もします。

一方で、やりきれなくなるくらい抱えて、どれも中途半端になってしまったり、自分のペースとは合わないような活動で追い込まれてしまって自己嫌悪になるくらいなら、たまに楽器ケースを開けて楽しむくらいでもいいと思います。上に書いたことと矛盾しているかもしれませんが、人それぞれ、その時その時で関わり方はいろいろあっていいものです。

ただちょっとでも「やってみたい」と思う気持ちがあったら、自分のできることからでいいから、まず始めてみることです。初めから高望みし過ぎるとキツいかもしれませんが、自分の現状でやれる範囲でとりあえず目標となる予定を入れてみる。本番でなくても、定期的にレッスンに通うでもいい。「ここまでに、これをできるようにしてみよう」という具体的な目標を持つこと。それがきっかけで、やりたいことが見えてくることもあります。

大事なのは、身動きがとれなくなるくらい詰め込み過ぎず、でも挑戦し続ける環境を自分でつくりだしていくこと。何事もバランスが大切です。

私も、抱え込みすぎて大変だったときは、ただ本番をこなすので精一杯で、一つ一つの音楽を深めるところまでできず、思うように吹けない自分を責めて、音楽と関わるのがつらくなったこともありました。でも一方で、本番をセーブしすぎてしまうと、「こんな風に吹きたい」という明確な目標がうすらいで、モチベーションがあまり上がらないような気もしています。

人それぞれ、自分がモチベーションを上げて音楽を楽しんでいくのにちょうどよいペースがあると思います。まずは、それをゆっくり見つけて、自分が一番自分らしく音楽を楽しめる環境をつくりだしていきたいところです。

 

まとめ

やっぱり「楽しいからやる」じゃないと、長続きしないんだよなと思います。

楽しければ、端から見て大変でもキツくても、自分にとっては夢中で頑張れたりするものです。義務感になるから辛くなって辞めたくなるんだよなと。

どこか義務感で頑張ってできるようにしなくてはと、過度なプレッシャーをかけて自分を追い込むより、単純に音楽やるのが楽しいとか、楽器を吹けることが嬉しいとか、そんな気持ちでいきたいものです。

せっかく音楽をやっているのだったら、自分が思い切り楽しめる環境をつくってみることも大切です。

ともすると教員という仕事をしていると、生徒に「もっと頑張れ」「頑張りがまだ足りない」とはっぱをかけて勉強させたり、練習させたりすることが少なからずあるように思います。もちろん、それ自体は悪気があってやっていることではないと思いますし、「もう少しやればできるはず」という期待がそうさせていることもあります。本当は力があるのに、すぐ諦めてしまう生徒に何とか自信をつけてもらいたいという思いから声をかけることもあります。でも、精神論・根性論だけに頼ってしまうことで、勉強することの面白さや、練習する楽しさを実感させられない授業や部活にしてしまうのは本質的でないような気もします。

「頑張りたい」という気持ちが、心からの欲求であるような環境づくりをすること。それが学校現場にももっと必要だと思います(自戒も込めて・・・)。

 

アレクサンダー・テクニーク教師養成コースで一緒に勉強しているホルン奏者の権左勇一さんが、先日次のようなブログを書かれていました。

本当にそうだな、と思います。せっかくやっているんだから、楽しまなきゃ損です!

 

自分自身も、とりあえずもう少し時間をつくって、自分のペースで楽器を吹く楽しみを感じる時間を増やして、生徒に音楽を楽しむ気持ちを還元していけたらなと思います。

 

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