今年もコンクールが終わりました。
今年のコンクールも、まだまだ自分の力不足。生徒たちはよく頑張りました。それだけに申し訳なさも感じます。でも、着実に最後まで力を伸ばし、音楽に真剣に向き合おうとする生徒たちと一緒に音楽をやれて、本当に楽しかったし、幸せな時間を過ごすことができました。お世話になったすべての方々に感謝です。
さて、コンクールは「金賞」「銀賞」「銅賞」といった結果がついてまわります。もちろんより上位を目指して練習を重ねていくことは大切ですし、出るからには金賞を目指したいところです。しかし、どのような賞だったとしても、そこに向かうための練習が無駄だったわけではありません。一人ひとりの中に芽生えたであろう達成感や課題意識、それに気付けただけでも大きな収穫です。また、”賞”や”点数”だけでなく、審査員の先生方からいただくことができる「講評」も、今後の活動の指針につなげていくことができる貴重なアドバイスがたくさん書かれていると思います。
限られた時間の中で、たくさんの学校の講評を書かなければいけないのですから、審査員の先生方の労力は計り知れないものがあると思います。きっと細かくアドバイスするとしたら、もっといろいろあるのだと思いますが、講評用紙には演奏を聴いて、今後の活動に活かしていけるようなアドバイスがポイントを絞って書かれているようにも思います。
つい「音程、ピッチ」「タテ」がズレているという指摘をそのまま真に受けて、チューナー大先生やメトロノーム大先生の支配下に置かれるような練習になってしまい、結果として個々の持つ音色や、自然なフレーズ感、体内からわき上がってくるテンポ感や拍子感といったものが損なわれてしまう演奏につながってしまうこともあるように思います。
一方で、「音程、ピッチ」「タテ」がズレているということは、ソルフェージュができていない、全体で曲に合ったブレスがとれていなかったりというように、その曲を演奏するために必要最低限合わせておきたいところも合わせられていない状態とも考えられます。
今日のつぶやきでは、講評でよく書かれる言葉をキーワードにして、次につなげていくためにはどのように受け止めていけばいいのかを、自分なりに考えてみたいと思います。
|コンクール講評で指摘されること
【音程、ピッチ】
とにかくこれは多くの団体が書かれることではないでしょうか。あまりにも書かれる確率が高いため、ともするとチューナー依存症になりがちになってしまう団体もあるような気がします。吹奏楽をやっている人は大人も含め、常にチューナーを譜面台に置き、マイクをベルに装着して、いつもピッチを確認している人が少なくないように思います。もちろんピッチに注意して演奏することは大事だと思いますが、ただチューナーの「0」の位置に針を合わせる練習をしたところで、全体のサウンドがブレンドするかといえばそうではありません。
余程の楽器を使っていない限り、楽器による音程の癖はあると思いますが、まずいい響きの無理のない音で楽器を鳴らせていたら、そこまで悪くなることもありません。いいピッチで演奏するということは、基本的な奏法やソルフェージュができているか、自分や周りの音を聴けているかということなのだと思います。つまり、「楽器を演奏する」という基本がどこまでできているかが問われているのであり、そういうところを大切に練習ができているかどうかをはかる側面があるように思います。したがって、ただピッチだけを機械的に合わせにいったところで、よい音楽になるかといえば、そうは言えないわけで、コンクール前に限らず、日常から自分の音にこだわりをもって練習できるかというところが大事になってくるように思います。
【タテ】
タテの線が合っている演奏は整理されてすっきり聴こえますし、響きも濁りのない移しい演奏になることが多いです。それだけに、ハーモニーディレクターのメトロノームを大音量で鳴らして、とにかくメトロノームに合わせて寸分の狂いもないように練習をしている団体も多いかと思います。もちろんメトロノームを一つの指標にして練習するのもいいですが、何より大事なのは、一人ひとりがテンポ感を持って演奏しているか、それに合ったブレスができているか、そのテンポ感を全体で共有できているか、さらには拍子を感じられているかというところのような気もします。つまりは、一人ひとりがその音楽にのって、積極的に音楽づくりに参加できているか、全体で同じ音楽を共有できているかどうか、それぞれの技量と集団としてのアンサンブル力が求められているのだと思います。「合わせよう」とすることも大事ですが、本当にその音楽を理解して一人ひとりが演奏しようとしたら、「自然と合う」状況も生まれてくるような気がします。そこまで理解が深められているかということも問われているのかもしれません。
【バランス】
いくら一人ひとりが上手かったり、スタープレイヤーがいるバンドであっても、バランスが悪かったら全体としてはあまりいい印象になりません。バランスを考えられた演奏というのは、集団で音楽をつくり出していく上では非常に大切なところであると思います。
では、バランスはどのようにして整えていけばよいのでしょうか。私は旋律と伴奏のバランスでも、ハーモニーのバランスでも、曲の構成を理解して演奏できているかというところが問われていると思います。指揮者の責任も大きいところですが、奏者も自分の役割を知った上で全体の音をよく聴いて演奏する必要があります。スコアを読んで、理論的に理解することも大事ですし、合奏の中で神経を研ぎ澄ませていい響きをつくろうと耳を使って演奏することも大事なところです。
【表現力】
表現をする方法としては、強弱、音色、アーティキュレーション、フレーズの取り方など様々あると思いますが、一番核になるのは「どんな音楽を奏でたいかということが明確か」ということだと思います。自分でどんな音楽を奏でたいのかというイメージがなかったら、設計図なしに家を建てるようなものだと思います。また同時に、そのイメージを実現するための技術がなかったら、釘を打てない大工さんが家を建てるのと同じで、音楽がガタガタしてしまいます。表現力というと、感性が問われるもので、「どうやって表現すればいいのか分からない」と思うこともあるかもしれませんが、楽譜にもヒントはたくさん書かれていますし、コード進行を分析することでもある程度どう盛り上げていけばよいのか理論的に考えることも可能です。普段からいろんな音楽を聴くことでも、どんな表現をしたいかという欲求は出てくるものだと思います。つまりは、どれだけ音楽と貪欲に向き合っているのか、その音楽を理解できているのか、というところが問われている気がします。
以上のように考えてみると、講評に書かれていることは「日常からどれだけ音楽と丁寧に向き合っているのか」「伝えるための技術を磨いてきているのか」ということを問いかけられていることが非常に多いように思います。言葉をそのまま一つひとつ受け止めると、機械的に音楽を合わせにいく感じになることもある気がしますが、結局は奏でたい音楽を聴いている相手に伝えるためにどんな練習を積み重ねられるかです。
「奏でたい音楽」なしに、細かい練習を積み重ねたり、もっと上達したいという思いを叶えていくことは難しいことです。「奏でたい音楽」があるからこそ、細かいところまでこだわって合わせてみたり、「もっとこうしたらいいのではないか」という向上心も生まれるものです。だからこそ、一人ひとりが「奏でたい音楽」を持っていて、それを実現するために試行錯誤しながら日常から努力している団体こそが、金賞をとることができるようにも思います。
これはコンクールに限ったことではありませんが、どんな時でも、いつも「奏でたい音楽」から始まる練習にしたいものです。それがきっかけになっている限り、より人の心に響く演奏を追究していけるし、結果としてコンクールの「賞」にも結び付いていく気がします。
コンクールがただ賞をとるための勝負事ではなくて、より奏でたい音楽を実現するきっかけとなったら素敵なことだなと思います。また来年に向けて頑張っていきたいです。
(2018.7.28追記)