人に教える資格ってどんなもの?

Twitterを観ていると、「自分なんかが教えていいのだろうか?」という先生や先輩の声、「専門家ではない教師が部活でめちゃくちゃ教えている」という非難の声など、「教える」ということについて、様々な声が飛び交っています。

それに対して、先日感じていたことをツイートしたところ、多くの方の反応がありました。

今日は「教える」ということについて、このツイートも元に考えたことをつぶやいてみたいと思います。

 

「教える」とはどのような行為なのか?

「教える」という言葉を、国語辞典で調べると次のような記述がありました。

  1. 知識・学問・技能な(どを相手に身につけさせるよう導く。教育する。教授する。
  2. 知っていることを相手に告げ知らせる
  3. ものの道理や真実を相手に悟らせて導く。戒める。教訓を与える。

このように、「教える」という言葉には、「導く」「戒める」のように、教える側が強い立場(上の立場)に立っていて、教わる側の対象に、教える側の人間が持っている知識や技能に近づけさせるというような意味が含まれているということが分かります。

一方で、「知らせる」という“ただ事実を相手に伝える”という意味でも「教える」という言葉が使われていることも分かります。

また、日本語の「教える」に対応する言葉として、“teach”という言葉の類語を調べてみると、次のような言葉があげられました。

  • teach: 知識や技能を与える意味の一般語.
  • instruct: 特定の主題や分野について,秩序立てて教える
  • educate :個人の潜在能力を引き出すという含みを伴い,職業専門知識を授けるための正規の教育を施す
  • train :実習,訓練,評価等を通して特定の教育目標の達成を図る
  • school,discipline :行儀・振る舞いに関するしつけを意味する

「教える」と一口に言っても、これだけの言葉で表すことができる上に、意味も少しずつ違っていることが見てとれます。このあたりは、日本語で説明するよりも、「インストラクター」「エデュケーション」「トレーニング」などの言葉が一般的ですから、英語にしてしまった方が直感で分かる部分はもしかしたら多いかもしれません。

面白いのは「しつける」という意味を持つschool という動詞が、名詞になると「学校」という意味になるところです。今でこそ「潜在能力を引き出す」「正規の教育を施す」という意味を持つeducate が、学校教育で目指す「教える」ということに近いような気もしますし、「しつけは家庭で、学校に押し付けないで!」という声が教員から聞こえてくるのに対し、「しつける」場所が「学校 school 」というのも、何だか皮肉な話です。

語源などはもっと調べていくと様々あると思うのでこのあたりで止めておきますが、いずれにしても「教える」という行為をするには、相手にとって未知の知識や、未熟な技術を高めるだけのスキルが備わっている必要があるということは共通しているのだと思います。

 

| 人に教える「資格」とはどんなものか?

では、人に教えるには資格がいるのでしょうか?

一応、文科省管轄の幼稚園、小学校、中学校、高等学校の教員になるためには教員免許が必要です。そのために大学では教育学部でない限り、自分の専攻している分野以外に教職課程の単位を卒業要件単位に上乗せして取得しなければなりません。さらに教員として働くためには、公立でも私立でも教員採用試験に合格する必要があります。そのように考えると、一応「資格」と呼ばれるものは必要だと言えるでしょう。

では大学はどうでしょうか? もちろん大学は研究機関であるという位置付けも大きいわけですが、学生を育てるという意味では教育機関でもあります。教授になるためには博士号や修士号を持っていることが条件になっている大学も多いですが、専門分野のポストが空いていて、「教授しようとする分野の専門的な知識や技術」があると認められたらなれることがほとんどだと思います。

スポーツや音楽の分野でも「指導員」の資格が必要とされることもありますが、必ずしもそうでないこともあります。

このように、同じ「教える」という立場に立つときでも、資格が必要だったりそうでなかったりすることがあります。また、資格に必要なスキルも様々ですし、経験を積むことで身に付くこともありますから、一概に「資格をもっている=教えるスキルがある」とも限らないのが現実です。

そのように考えると、「資格」というものは一つの保証ではあるけれど、それだけで教えることができるわけでもないし、資格にあぐらをかいていてもいけないのだということが分かります。

 

「教える」ことは意外と身近なこと

教員や指導者のように、「教える」ことを仕事にしている人もいますが、職業として「教える」ことをしていなくても、「教える」という行為は、私たちの身近にあるものです。

例えば、

  • 道を聞かれて教える
  • おすすめの店を教える
  • スマホの操作の仕方を教える
  • 話題になっていることを教える
  • 友達が解けない問題を教える

など、生活の中で「教える」ということを私たちは1日に一度くらいは体験しているのではないでしょうか。

もちろん、知らないことを教えることはできませんし、意図的に嘘を教える人は基本的にはいないはずです。困っている人が目の前にいて、自分以外に人がいなくて、何となくでも自分が力になれるかもと思ったら、手を貸したくなるのが人情というものではないでしょうか。

このように「教える」ということは、多くの場合、善意に基づいているものだと思います。相手が困っていることを何とかしてあげたいという気持ちが、「教える」ということにつながることも少なくない気がします。

「自分なんかが教えちゃダメだ」「教える資格なんてない」と思ったとしても、まず「教えよう」と思った自分を褒めてあげてほしいと思います。「教えてあげる」というと上から目線でいい印象は持たないかもしれませんし、もしかしたら相手にとって迷惑なことになってしまうかもしれません。でも、一瞬でも「誰かのために力になろう」と思ったことは素敵だと思います。

誰も教えることをしてはいけないわけではありません。(明らかに「資格」が必要な場合を除いて)教える資格なんてないと嘆く必要もありません。

もし「教える資格はない」と思うのであれば、それは自分の力不足を感じている証拠ですし、向上する意欲をもっているということです。それも否定される感情ではありません。

「教える」ことは身近なこと。誰もが経験すること。そう思って、自分にできることをすればよいのではないかなと思います。

 

教える・教えられたことは絶対じゃない

ただ、専門的な知識や技術が必要なことを、知っている知識だけで安易に教えてしまうと、それが相手の成長を妨げることにつながってしまうこともあります。教員免許や、指導員資格、師範資格などは、そういったことを避けるために、国やその分野の権威となるような団体がスキルを保証する制度だと言えるでしょう。

しかし、資格を持っているからといって、その人の教授力が高いとは限りません。最近では教員免許も10年更新制になりましたが、例えば車の免許だって一切運転していなくてもちょっとした講習を受けるだけで更新できますし、必ずしもその資格が教えるスキルが高いということにつながっていない例も残念ながら少なくないようにも思います。

そこで大事なのは、教える側・教えられる側の双方が「教えたこと(教えられたこと)は、絶対じゃない」ということを認識しておくことです。

子どもたちに対しては少し難しい注文かもしれませんが、「教えられたことは、一つのアイディアであって、絶対的なものではなく、必ず従わなくてはいけないものではない」ということを認識してもらうことは重要なことだと思います。

もちろん、「絶対ここは譲れない」というところを、手とり足とり教えることも必要なことです。しかしどんなに教える人自身が一流のプロであったとしても、生徒にとって一番良い方法で教えられているかどうかは分かりません。

誰かに物を教えるときには、どうしても自分の経験したこと、自分が知っていることからしか教えることができません。それだけに経験が浅い人間が教えることに反対する人が多いのはよくわかります。中途半端に知っている人が、自分の経験だけを基に教えることで、相手の人生が台無しになってしまう可能性もあります。だからこそ、教える側にも「教えようとしていることは絶対じゃない、それに相手を従わせようとしない」という意識を持つことが求められる気がします。

確かにその道を真剣に、専門的に極めようとした人の方が、知識もスキルもあります。できれば楽器も勉強も、早いうちからそういうエキスパートに習えることがいいと思います。でも、「先生」と呼ばれる人たちも、教えていく過程、自分の技術や知識を高めていく過程で、もっともっと研ぎ澄まされていく部分はあるし、どこまでできていたら教えていいのかというのは難しいところです。私自身を振り返っても、1年目に教えた生徒に対して「今ならもっとこうできるな」と思うこともありますし、きっと10年後、20年後に会う生徒にはもっと違うことが提供できるようになっていくような気もします。

「教える資格」、その一つの答えは、私がトランペットを教えて頂いている荻原明先生が、私のツイートについておっしゃっていたことのようにも思います。

では、「教わりたいと思われる人間」とはどのような人間でしょうか。

それは、教わる相手の持っている知識や技量、そしてそれを伝える力が自分にとってとてもプラスに働くと実感できる人間のことのように思います。自分にとって荻原先生やボディチャンスの先生方はまさに「教わりたいと思われる人間」です。

  • 自分の知らないことを知っている
  • 自分の課題を観察して、それに合ったアドバイスをしてもらえる
  • 先生自身の考えに固着せず、常に生徒のいいところを探してくれる
  • 説明が分かりやすく、実践的である

ざっと挙げると、このようなことをレッスンでされている方は、 「教わりたいと思われる」ような気がしています。

ただ、誰かにとって「教わりたいと思われる人間」が、他の誰にとってもそうかと言われれば、必ずしもそうではないかもしれません。でも少しでも自分に教わりたいと思ってくれる生徒がいるならば、その生徒のために全力を尽くすことも、また責任のように思います。

これは、何も教員や指導員に限ったことではありません。先輩が後輩に教える時にも、同級生に指摘するときにも。同じことが言えると思います。

とにかく、相手の人格までも否定しないこと。そして、自分が絶対だと思わないこと。常に相手のためになることを考えて、自分自身が学び続けること。それが、「教える」という立場に立った人間に求められることのようにも思います。

 

おわりに

この記事を書いていて、「教える」って本当に難しいことだなと改めて思いました。でも、改めて考えることで、自分自身が「教える」ということについて真剣に考える機会ができて良かったかなとも思います。

下にあげるのは、先日、同僚と話していたときに上がった話です。

教師でも、指導員でも、先輩でも、同級生でも、教える立場に立った時には、自分が相手の鏡になるということを忘れずにいることは大事かなと思います。

自分自身ができないことは、相手にも教えることはできない。
自分自身の思いは、相手に伝わる。

それを知っているだけでも、十分に教える資格はあるように思います。

傲慢になっちゃいけない
言うことを聞かせようと思っちゃいけない

でも、懸命に、相手のこと思ってしたことは、必ずどこかでプラスに繋がっていくように思います。だから、行動に移す前に止めてしまうのではなくて、相手にとって最善のことを共に探していくつもりで行動してみることも大事だと思います。

自分も、それを肝に銘じて、自分の思いを大切にしながら、生徒たちの成長を心から喜べる教師を目指したいと思います。そのためにも、まずは自分自身をしっかりもつこと。そして、心と体にゆとりをもって、いろんな環境を受け入れていけるようにしたいなと思います。

 

支離滅裂な文章になりましたが、今日はこの辺で。。。

iQiPlus

人に教える資格ってどんなもの?” への2件のコメント

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