今の時代だからこそ、あえて教員という仕事を選ぶ。

最近、「学校はブラック」「ブラック部活動」という言葉が世の中をにぎわせています。確かに様々な話を聞いていると、そのように感じられる面もあるようにも思います。それは教員にとってもそうですし、生徒たちにとってもいえることでもあります。

ただ、私は何でも「ブラック○○」とくくるのは好きではありませんし、「学校には夢がない」「部活が全ての悪の根源」のように思われてしまうのもどうかなと思っています。

社会的に見ておかしなところであったり、悪しき慣習であまり意味のないことなどは、改善すべきです。しかし、教育とは、人と人との交わりの中で営まれていくものですし、「これが絶対にいい」「これは絶対に悪い」と完全に二択で決めつけられるものではないものでもあります。

一括りにしてしまうことで、本当に大事な部分が埋もれてしまうこともあるかもしれません。

このような状況の中で、教員を志す学生が減ってきているという話も聞きます。それは当然のことかもしれません。でも、本当に志のある学生が教員を目指さない世の中になってしまったら、日本の教育は崩壊してしまいます。

今日はそんな思いで、教員の仕事について考えてみたことをつぶやいていこうと思います。

 

誰だって、初めは志をもっているもの

教員が問題を起こしたり、しどろもどろに弁解している教員の姿が報道されたりすると、ネットでは「教員のくせに」「事なかれ教員」「だから教員はダメだ」とものすごい勢いで批判の意見が飛び交います。確かにそのような意見も理解できますし、そうした報道を見るたびに、気を引き締めていかなければなと思ったりするものですが、恐らくそうやって問題を起こした教員も、初めは何らかの志をもって教員の道を目指した人がほとんどだと思います。

  • 子どもたちの成長のために頑張りたい!
  • 専門教科の面白さを伝えたい!
  • クラスや部活を通して集団で何かをする喜びを伝えたい!
  • 自分が尊敬している先生のようになりたい!

動機は様々だと思います。

確かにこの動機の中に、

  • (公立の場合)公務員だから、身分が安定している。
  • 給料も若いうちから比較的良い。
  • 長期休暇があって、楽。

などと考えて、「教員免許も取ったし、教員にでもなるか」という人が全く紛れ込んでいないわけでもありません。しかし、一時期と比べて就職も学生の売り手市場となり、教員免許も以前よりは取得に必要な単位数が増え、免許更新制も始まり、長期休暇でも土日を含めほとんど毎日出勤している教員の様子を見ていたら、このような動機だけで教員になろうという人は必然的に排除されているようにも思います。

私も、もともと苦手だった化学や生命科学の面白さを少しでも多くの子どもたちに伝えたいという願いと、成長の真っただ中にいる子どもたちの不安や葛藤に付き合いながら、自分にできることを精一杯やっていきたいという思いで教員になりました。

今でも、その気持ちは変わりません。

でも、ずっとその気持ちを前向きに持ち続けてこられたかと振り返ってみると、この約15年間の中では何度も折れそうになったのも事実です。

 

なぜ、志は折れそうになるのか?

基本的に教員は「生徒のために」という思いで行動しているものです。口では「あの子全然ダメなのよ」「うちの生徒はできが悪くて」と言っている先生でも、実は一人ひとりのことをすごく大切に思っていて、自分にできることを考えて一生懸命生徒と向き合っている先生がほとんどだと思います。

ただその「生徒のために」を表現する方法やアプローチは一人ひとり「何を大切にしているか(軸にしているか)」によって違ってきます。

当然と言えば当然のことなのですが、自分の信念が強ければ強いほど、「生徒のため」という価値観がぶつかり合うことになります。それ自体は悪いことではないし、大いにぶつかって、本当に目の前の生徒にとって何がよいかを教員同士でじっくり考え、合意を形成していくことで、よりよい教育環境というものは生み出されていくようにも思います。

また、どんなに自分が良いと思っている方法であっても、生身の人間相手だから上手くいかないこともありますし、同僚や保護者になかなか理解してもらえないこともあるものです。そこには日頃からの丁寧なコミュニケーションと、信頼関係の構築は不可欠です。そして、信頼関係を築くには教員自身の人間性も問われます。

私自身、どうしてもベテランの先生がやられていることに納得がいかなくて、不満をぶちまけていたこともありました。でも、ベテランの先生は先生で、経験を基に、自分とは違った視点から生徒たちのことをあたたかく見守っていたのだと、後から気づいたこともたくさんあります。

逆に自分が良かれと思ってやっていたことが、結果として生徒や保護者に伝わっていなかったり、同じ教員にも理解してもらえなかったりして、ただの自己満足だと思われてしまうことも少なくありません。自分もそのような経験が少なからずあります。すべて自分の力不足が招いたことではありますが、あまりにも自分がふがいなさ過ぎて、自分は教員なんか向いてないのではないか、辞めてしまった方がいいのではないかと真剣に考えたこともありました。

  • こんな風に生徒を育てていきたい!
  • こんなことを積極的に取り入れていきたい!

そうやって、自分の中で『誰かのために』やりたいことを明確に持つことは絶対に必要なことです。でもそれが、どこか独りよがりなものになってしまったり、信頼関係の構築抜きで押し通そうとしたりすると、破綻してしまうこともあります。

そういうとき湧いてくる想いは人それぞれだと思いますが、自分の力の無さを嘆いたり、環境や周囲の人のせいにしたりというように、何かにダメ出しをすることでモヤモヤした想いを消化しようとする人も多いように思います。

その中で、自分へのダメ出しがエスカレートしていくと、自分の志まで責めはじめ、折れそうになることはあるのだと思います。そして、「これをやってもどうせダメだろう・・」というあきらめの気持ちにつながってしまうことも残念ながらあるような気がします。

 

教員は学校という組織の中の一員でもある

生徒と1対1で、一人の人間として向き合うことも大事なことです。私は教員である前に、常に一人の人間でありたいと思っています。

それは、世の中にはいろいろな考えがあって、いろいろなやり方が合るということ、人によって大事にしているものも違ってもよいということを伝えていくことが大事だとも思うからでもあります。

その一方で、学校として方針がぶれないことも必要です。

学校では、決して一人の教員が生徒を育てているわけではありません。一人の生徒に関わるたくさんの大人たちが、複数の目で見ていくことも大事ですし、教員間のチームワークというものはとても重要なものです。

その時に、最低限共通の意識を持っていることも必要だし、自分の信念を押し通すだけでは上手くいかないこともあります。学校として何を大切にするかということが、自分の考えと違うこともあるのだと思います。これは組織にいる以上、当然起こりうることです。

教員は普段、一人で授業を行うことがほとんどですから、自分という看板を掲げて仕事をしていることが多いわけですが、学校という組織の一員でもあるので、大枠は組織として決定した方針に従っていく必要もあります。

そこで「自分の信念と違うから従えない!」というのは自由ですが、皆がそれを言い始めたらどうなるでしょうか。

子どもたちにとっても、教員によって指示や言うことが違ってしまったら、混乱を生じる原因になってしまいますし、「先生たちのコミュニケーションがとれていないとはどういうことだ!」ということになりかねません。

自分の信念を貫くことは大切ですが、それぞれの信念を出し合って、どう合意形成をいていくかということはもっと大事なことなのだと思います。

ただそれが時として、「教員の保身だ」「学校の隠ぺい体質だ!」と揶揄されてしまう原因になってしまうこともあるのかもしれません。一人の教員の考えや感じ方だけで動いてしまっても「先生によって言うことが違う」になってしまいますし、なかなか難しいところでもあるようにも思います。

また、組織の中で最低限担うべき仕事をしていなければ、どんなに良いことを導入しようとしても理解してもらえないこともありますし、それが結果として生徒にとってマイナスになってしまっていることも実際にはあるような気もします。

例えば、生徒が部活で頑張る姿を応援してもらうためには、授業やクラスでも誠意をもって努力していることも必要であることが多いと思います。学業でなかなか振るわなかったり、クラスでもあまり目立たなかったりする子が、部活で生き生きと活躍している姿を見ると、「こうやって好きなことを一生懸命やることって素敵だな」と思ったりもします。でも決してそれは「部活だけ」やればいいということではなくて、苦手でも頑張ろうとする姿がクラスや授業中あるかどうかというところも、大きいような気もします。

それは、教員も同じことです。もちろん得意不得意はありますから、それぞれの得意を活かして、教員がチームを組んで学校をつくっていけたらいいのですが、そのためには、それぞれが自分勝手にやりたいことをやるのではなくて、学校として何を目指すのか、同じ目的を持って教育活動にあたっていくことも大事です。いくら大会の結果が良くても、「あの顧問は部活だけやらせればいいと考えている」と全体に思われてしまうような活動にしてしまうと、同僚にも保護者にも理解されず、生徒たちの頑張りまでが「○○部の子は、部活しかやらない」という目でさらされてしまうこともあります。子どもをそういった“大人からの視線”から守るためにも、顧問や担任が学校組織の中で柔軟に対応していくことも必要なことなのだと思います。

このように、組織の中で自分がどのような存在であるかということは、自分のためだけでなく、子どもたちが自分でやりたいこと、目指していることを本気で頑張ることができるような環境で育っていってもらうために、教員が自分自身で考えなければいけないことです。

 

それでも、教員という仕事には魅力がある

志を高く持って教員になった若者が、数年で仕事を辞めていったり、やりがいを感じなくなったりするという話は残念ながら多いように思います。もちろん、他にやりたいことを見つけて、前向きに転職していく人もいると思いますが、教育現場の過酷さに疲弊したり、思っていたような環境ではなかったことに幻滅して辞めていくという状態というのは、とても悲しいことだなと思います。

もちろん、今学校で若い先生たちを見ていると、とても素敵なアイディアをたくさん持っていて、どんどん素晴らしい実践につなげておられる先生もたくさんおられます。若い芽をつぶさないように、若い先生方がどんどん自分の力を発揮できるようにサポートするのは、私たちの年代なのだろうなと思ったりもします。

上に書いたように、教育現場はいろいろ大変なこと、つらいと感じることもあります。でもそれは少なからずどんな仕事についてもあることで、教職だから特別だということでもないように思います。

それでも教育現場が注目されるのは、「学校」という場を誰もが経験したことがあり、イメージがつきやすいからなのだと思います。

実際は、教員になってみないと見えてこないこともあります。私も自分が生徒だったときに「この先生、ほんとダメだな」と思っていた先生が、実はすごく生徒思いで、学校や保護者と板挟みになりながら頑張ってくれていたということを後から知ったこともありました。しかしこれも、就職活動の時に持っていた企業イメージと、入ってからの現実とのギャップを強く感じることがあるのとあまり変わらないようにも思います。

「教員」という仕事は、数ある仕事の中の一つのものです。決して特別なものではありません。

生徒がいてこその「先生」。実際、自分が教えていることより、生徒から教わっていることの方が多いかもしれません。ただ「先」に「生」まれただけ。傲慢になったら終わりです。少しでも生徒に自分の経験や学びを還元できるように、日々精進していこうという気持ちを持ち続けることができなかったら、子どもたちに何かを伝えることはできません。

でもだからこそ、面白い仕事だし、魅力的な仕事なのだとも思います。

対象となる生徒は毎年変わります。
生徒自身も成長する中で、日々変化していきます。
その変化を感じながら、自分にできることを考えてみます。
自分に足りないことを見つけたら、新たに学べばいいのです。

子どもという、とても柔らかい頭や感性の持ち主と毎日接することで、自分自身が学ばされることはたくさんあります。だからこそ、毎日がとても刺激的なのです。刺激が大きすぎて、参ってしまうことも時にはありますが、苦労しながら考え出したり、生徒の笑顔が見られるような結果に結び付けられることがあると、また頑張りたいなと思えたりします。

生徒にとっては、長い人生の中で6年間だったり、3年間だったり、1年間だったりという短い期間に出会う大人の一人に過ぎないかもしれませんが、教員にとっては、その短い時間の出会いが、大きな積み重ねとなって次世代の生徒を育てていこうとするときの力になってくれていることもあります。

今の世の中、わざわざ教員を選ぼうと思う人は少ないかもしれません。でも、とてもやりがいのある仕事だし、どんなに大変でも、子どもたちの笑顔を見ると、それで全部帳消しになるようなところもあります。それは今も昔も変わらないようにも思います。

そして今、教育は変わろうとしています。生徒が自ら考えることや発信すること、そして協働する中で新たなものをつくりだしていくことを大事にする教育。今までさんざん言われてきていながら、なかなか変革が難しいと言われてきたところに切り込もうとしています。ちょうど変革期の今、高い志を持ち、従来の考え方や慣習にとらわれないアイディアを持っている人が、その力を発揮できる環境になりつつあるような気がします。

ぜひ少しでも教育に興味がある、意欲のある人たちが、どんどん仲間になっていって欲しいなと思いますし、それを受け入れる環境を自分たちも、頑張って整えていきたいなと思います。

 

終わりに

SNSで自分をフォローして下さっている中高生、大学生の中には、「教員志望」「吹奏楽部顧問志望」「吹奏楽指導者志望」という人もたくさんいらっしゃいます。これだけたくさんの若者が、子どもたちを育てていく仕事に興味を持っていることは、まだまだ日本の教育も未来があるなと感じることもあります。

でもその一方で言いたいのは、もし部活だけをやりたくて教員を目指すのなら、辞めた方がいいと思います。部活は楽しいし、やりがいがあります。素敵な顧問の先生に出会って、その志を引き継いでいきたいという思いも素敵です。ただ、教員の仕事の中で、部活というものはほんの一部に過ぎません。教科指導、学級経営、分掌(委員会指導、進路指導、生活指導、教務、広報など)の仕事をこなして、その上での部活です。

私は教員をやる上で一番大切なのは、「生徒のために何ができるか」を問い続けることではないかと思っています。そして中高の場合は、特に「自分の専門教科で何を伝えたいか」というところのようにも思います。授業が魅力的でない教員は、どんなにいいことを言っていても、どんなに部活で結果を残しても、生徒から本当の意味では信頼されません。ですから、「顧問になりたいから教員になる」というのはあまりおすすめしません。それだけだと、きっと現場はつらいです。

教員を目指すにしても、吹奏楽指導者を目指すにしても、「指導」にあたる以上は、自分の専門性を何らかの形で磨いていくことが必要です。何の教科を専門にするのか、楽器を軸にするのか指揮を軸にするのか。本当にやろうとしたら、「指導」そのものを軸にするのではなくて、自分でできる何かを土台に持っていることも必要な気もします。

自分の軸は、やっぱり化学であり、理科であったりします。
研修会などに行くと、専門的には力不足を感じてばかりいますが、それでも理科の授業、化学の授業をしている時は楽しいですし、「伝えたい」「こんな力を身につけてほしい」ということはたくさん湧き上がってきます。

吹奏楽の顧問をやっていても同じようなことを思いますが、音楽の先生の指導を見ていると、自分はやはり専門性が土台になっているわけではなく、あくまで「部活の先輩」のような指導になっているなと思うことも多いです。せっかく顧問になったので、少しでも専門性を身につけて、より生徒に還元できたらと思って、トランペットのレッスンや、アレクサンダーテクニークの授業、指揮法の勉強、指導者研修会などにもここ数年で通うようになりましたが、就職して数年間にその余裕があったかというと、正直ありませんでした。教科の方で少し自信がついてきて、ようやく部活にも力を入れ始めることができたといったところでしょうか。

人によっても、学校によってもやり方は様々だと思いますし、もっとオールマイティーにやれてしまう人もいると思いますが、自信を持って「これ」と生徒の前に立てる何かを持つための努力をすることは、教員を目指す上でとても大切なことです。

何だか説教がましくなってしまいましたが、今の時代だからこそ、たくさんの若者に教員という仕事を選んでもらいたいです。一緒に働く人、募集中です。ぜひ一緒に頑張っていきましょう!!

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