先日、Twitterで次のようなツイートをしたところ、思いがけず多数の「いいね」とリツイートを頂きました。
生徒に「演奏会行くんで部活休みたいんですけど、やっぱりマズいですかね?」と聞かれたので、「いやいや、どんどん行って、感想聞かせて!全体にも還元して!」と言ってみたら、不安そうだった顔が晴れ晴れしていた。そこまで部活を休むことに罪悪感を感じさせているのかなと少し苦しくなりました。。
— おのれー (@rapparapa18) 2017年10月2日
リプライや引用コメントなどを読んでいると、このツイートに反応された方の心情としては、大きくは次の2つがあげられるのではないかなと感じました。
- ただ練習をするだけではなくて、演奏を聴きに行くことも大事な時間だと思うんだけどなぁ。
- 演奏会にも行けないほど部活があって、しかも「休んではいけない」という強制力があるなんてどうなんだろう。
今日は、この2つの事柄に対して、今の自分が考えていることをつぶやいていきたいと思います。
|いい演奏は、憧れの音楽をイメージすることから!
自分の身の回りでも、SNSなどでも、「上手くなりたい」「いい演奏がしたい」という声に出会うことは非常に多いように思います。自分自身、同じような思いは思っています。でも意外と、「上手くなるってどういうこと?」「いい演奏って何?」と具体的に突っ込んでみると、言葉に詰まってしまう人も少なくないのではないでしょうか。
それは、自分がこれから「やりたい!」と思う音楽の明確なイメージが持てていないことに起因すると考えられます。
いくら上手く吹こうとしても、「どうやって吹きたいか」という具体的なイメージがなければ、ただ音を出して、音を並べただけの演奏になってしまうものです。トランペットだったら、「高い音が出る」「大きな音が出る」というと、ついつい「上手いなぁ」と思うこともあるかもしれませんが、その音を使って、何を表現したいのか、何を伝えたいのか、ということなしに、決して「いい演奏」「いい音楽」というものにはならないのだと思います。
その具体的なイメージを持つには、自分の心が揺り動かされるような、「こんな風に演奏してみたいな」というような演奏に出会うことが一番なように思います。
自分自身、母の影響で幼い頃から音楽を聴く機会は多かったですし、中高で吹奏楽にはまってからは、CDを聴き漁り、プロのオーケストラや吹奏楽団のコンサート、世界的なトランぺッターのリサイタルなどには足しげく通うようになり、また高校ではその後プロ奏者になった憧れの先輩の音を間近で聴いたりして、「こんな音色で吹けるようになりたい」「こんな迫力のある演奏をしたい」「こんな風に気持ちを込めて歌えるようになりたい」というイメージが自然と湧いてくるようになった気がします。
今でもそれは同じです。
つい技術的なことにばかり目が向いてしまったり、何となく音符を並べるだけで精一杯になっていると、イメージが湧かず、結果として技術的にも上手くいかなくなってしまうことが多いですが、レッスンで先生の演奏を聴いてから吹いてみると、イメージが具体的になっている分、技術的なことにあまり意識を向けていなくても、結果的にうまくいってしまうこともあるように思います。
そして何より、本当に素敵な演奏に出会うと、心から「音楽っていいな」と思うし、どんなに行き詰っている時でも、また楽器を頑張ってみよう、音楽と真剣に向き合ってみようというモチベーションが上がるものです。
【過去記事】
・「合わせる」のではなく、「自然と合う」 ~ウィーン・フィルから学んだこと~
・自分の歌をうたう!
・音楽は、百見は一聴にしかず?!
このように、心を揺さぶるような素敵な音楽を生で聴きに行く機会というものは、音楽をやる上では絶対に必要な時間だと思います。むしろ、一人で楽器と向き合っているだけでは得られないものを得られることもありますし、それは自分の音楽に少なからず影響を与える大切なもののように思います。
Twitterでも、私のツイートを読んで下さった方々が、次のようなことをツイートされていました。
生の音を聴きに行くという経験、とっても大切なことだと思います! https://t.co/DmCQt84dpx
— 石川佳秀【公式】 (@sing_body_yoshi) 2017年10月3日
プロになるまでプロ野球の試合を生で見たことなかった高校球児とかも結構いますよね。音楽ももちろんだけど、部活全体的にその競技のプロのプレイに触れる機会は、部活動の一環として持った方がいいのでは?とすら思っています。 https://t.co/b429zPGvdd
— なないろ (@naota_9) 2017年10月2日
「野球部の同級生いるよね?彼らはプロ野球とか興味あると思う?思うよね!好きなチームとか選手、憧れてたり目指してるプレーとかきっとあるだろうね!」
吹奏楽の生徒も、自分の担当する楽器のプロプレーヤーの演奏に興味を持ち、たくさん聴いて学んでほしいのですが、そうしてる人は少数派です。— 高橋秀典 (@hidefl2710) 2017年10月2日
私も練習休みの日を利用して、よく聞きに行った。特に1983年吹コン関西大会中学の部は、初めて聞く支部大会のレベルに驚いた。同じ中学生なのに、なぜこんなに違うのかと思った。プログラムは書き込みで真っ黒になった。その感想や思い出を他の部員や後輩にも話した。まだプログラムは残してある。 https://t.co/6tx8t5LxgB
— ystkgknu (@fuetetsu) 2017年10月2日
しかし、実際のところ、「練習を休めない」という理由で行きたくても演奏会に足を運べなかったり、コンクール上位大会常連校の演奏会は満員御礼だけど、プロ楽団の演奏会は空席が目立っているといったことも起きていたりします。中には次の方のような例もあるようです。
昔、定期演奏会で「惑星」やるから、練習休んで、「N響の惑星聴きに行きたい」って言ったけど、同級生の幹部に止められたなぁ。そんな彼らが授業休んで(当時土曜は授業があった)、普門館に全国大会聴きに行っていたけどそれは部活では認められていた。 https://t.co/A2gExlhZiy
— 相澤 真一 (Shinichi) (@isaactruth) 2017年10月3日
別に全国大会を聴きに行くことが悪いことだとは全然思いませんし、同年代の頑張りから刺激を受けることもあると思います。ただ、できれば若いうちにできるだけ一流の音楽に触れさせることは、指導者としてもすすめていくべきだし、「聴きたい」と思えるように促していくことは大事なことなのだと思います。ましてや、コンクールだけに目を向けて、それしか視野に入らないような活動では、それは音楽の活動ではなくなってしまいます。吹奏楽はもちろん、オーケストラやビッグバンド、好きなアーティストのライブなど、第一線で活躍しているミュージシャンの演奏を聴きに行くことで、自分の音楽の世界を広げていくようにうながしていけたらなのかなと思います。
|「休めないから、演奏会に行けない」はナンセンス
2つ目の視点としては、「活動日が多すぎて、演奏会にさえ行けない」というように読み取っていただいたのか、昨今の“部活問題”に関連してリツイート、コメントをされていた人が大変多かったように思います。
ほんとこれ。部活でもサークルでも独立団体でも、タイミングとか諸々あるけど「休むことは悪いこと」みたいな風潮やめて欲しい。 https://t.co/4lEkocL2RG
— 堀コヒ (@meMEshe_0541) 2017年10月2日
吹奏楽強豪私学。
コンクール組は選抜、皆必死です。
朝から晩まで(自主的にも)練習しています。
「これからも続けるの?」と聞いたら「もうやらないですよ。やりきってしまいますから」と。
音楽を愛し、才能もあった人がそこから離れてしまう。部活の在り方について、考えてしまいました。 https://t.co/JQwEHWuFES— honeycomb (@honeycomb_h) 2017年10月3日
<plang=”ja” dir=”ltr”>我が子が高校の吹奏楽部に入ったんだけど本当にびっくりするくらい練習する。夏もコンクール後にお盆休み数日あったくらいで毎日朝から夜まで。演奏会どころか楽器屋にリードを買いに行くのも大変。だれか楽器の先生につきたくても無理。そんなんじゃ音楽世界が狭くなるんじゃないかと心配になる。 https://t.co/J2USOAGvrx
— 肥前ナイロビ (@cb778l) 2017年10月3日
生徒が質問出来るくらいだし、自覚がおありだから少し安心しました。でも、顧問が独裁的で殆ど休みがなく、苦しんでいる吹奏楽部の生徒は沢山います。適度な休養を与えて、楽しい吹奏楽活動がどこの学校でも普通に出来るように常識ある先生達が立ち上がってください。 https://t.co/3DKV0NT2qO
— ma-bo- (@mabo2009) 2017年10月2日
ほんとこれ。部活でもサークルでも独立団体でも、タイミングとか諸々あるけど「休むことは悪いこと」みたいな風潮やめて欲しい。 https://t.co/4lEkocL2RG
— 堀コヒ (@meMEshe_0541) 2017年10月2日
最近、「ブラック部活動」が大々的に取り上げられ、それだけ注目されていることだけに引用された方が多かったのだろうなと思います。実際、学業そっちのけで過剰だろうと思われる活動時間で部活をやっている学校もあると思いますし、顧問が圧倒的な強制力を持っていて、理不尽な指導が行われている学校も残念ながらあります。
自分自身も、生徒たちにとっては理不尽だと思うことをやっていることもあるとは思いますし、何でも「ブラック〇〇」と括ってしまうのはどうしても抵抗があるのですが、こうした部活動の現状に問題意識はあります。
特に部活の拘束力が強すぎて演奏会に行けない、レッスンにつけないというのは、部活にとっても結果的にはあまりプラスにならないようなことにも思います。適度な休みが合って、自分で自分の時間の使い方をプランニングしていくことも大事なことだと思いますし、自分で決められる余裕があってこそ、やる気も出て、モチベーションの高い状態を維持することができるようにも思います。
と考えてみると、ほぼ365日あるような部活というのは異常である面も大きいような気がします。「部活に打ち込む」ことと、「部活に支配される」ことは違います。本当に自分の自主的な気持ちから365日練習してしまったということはあるかもしれませんが、それが「やらなければいけないもの」になるのは何か違う気もします。
さすがに本番直前の通し練習とかだったら全員そろっていなきゃなと思うし、合奏だって本当は誰も欠けていて欲しくないものです。でも本当にいい音楽、心惹かれる演奏に生で出会うことで、ただ練習を続けるより、意欲やイメージが湧いて自分の演奏にプラスになることはたくさんあります。聴くことも部活のうちなのではないでしょうか。
|部活を休む、という選択。
私の勤務先は、部活の活動日は平日3日以内+土日どちらか(月の半分以内)と決まっています。朝練も週2回以内、長期休暇中も日数とコマ数(1日を午前・午後の2コマと計算)が決められています。ですから、生徒が練習日程の原案をつくると、顧問全員で日数をカウントし、本番の予定などの考慮をしながら日程を調整します。最終的には全ての部活が1ヶ月毎の「クラブ活動届」に記入し、事前に教頭に提出することになっています。
それだけに、限られた活動時間でどう集中できるか、工夫するかが重要です。少しずつ工夫できるようになってきた面もありますが、まだ活動日が多かったころの慣習を引きずっていて、なかなか時間を上手く使えずにいるところも多いように感じています。全体に対しても「日程を変えられる用事はできるだけ活動日以外に」というお願いはしています。多くの生徒は塾や習い事、友達と遊ぶ予定などは活動日ではない日に入れているようです。だから冒頭に登場した生徒も、余計に活動日は休みづらいと感じていたのかもしれません。
とはいっても、体調不良や通院、委員会活動や補習、家族での用事などがある場合は、遅刻・早退・欠席は認めています。ただ必ず「いつ、誰がいないのか」ということは把握するように心がけています。夏休み中などは、できるだけ出席人数が多い日に合奏を入れるなどの工夫も必要だからです。
先日のツイートをしたところ、川越市立高校の森先生が次のようなツイートをされていました。
私も演奏会、病院、大切な遊びなどで部活を休むのは賛成派です。
休んだ次の日に、練習で追加された指導を部員に聞きに行く事、また、休んだ人に伝達すること、両者の心遣いが雰囲気を良くしていくのかなっておもいます。休みやすい環境作りは、指導者からも部員からも作って行ければいいですね!
— 森裕貴 (@heppoco_Cond) 2017年10月2日
私も同感です。部活を休むことは決して罪ではないし、悪いことではありません。ただ、休んでいた間に何が起こっていたのかを、休んだ人が聞きにいったり、休んだ人に伝えたり、というコミュニケーションは大切なのではないかなと思います。
社会人の楽団に入っていると、出欠が大変厳しい楽団もありますが、多くの楽団は仕事の都合などで出席できない団員がいることは当然仕方のないことだという認識があると思います。オーケストラの管楽器であれば「代奏を立ててね」と言われることも多いですが、私もそういう寛容さの中で、自分の演奏活動を続けることができていると思います。
ただこちらの場合も、運営も演奏も上手くいっている団体というのは、練習を休んだ時にはクラウドにアップされている練習の録音を聞いたり、欠席者に必要事項を伝達したり、メーリングリストなどで情報が共有されていたりと、コミュニケーションをできるだけとるようにしていることが多いです。
趣味でやっているわけですから、仕事よりも優先して続けることはできません。子育て・介護世代になれば、自分の意思でスケジュールをコントロールするのが難しい面もあります。その中で、多くの愛好者が音楽活動を続けていくためには、そうした工夫や寛容さも必要になってくるのだと思います。
部活も同じです。コントロールできる予定は調整した方がよいと思いますが、何が何でも部活の時間が優先されるわけでもありません。心から部活を頑張りたいと思っていても、どうしても休まなければいけないこともあるのだと思います。大事なのは、コミュニケーションをとることです。休んだ分をどうフォローするのか、それをお互いに考えていくことができれば、「部活に縛られて休めない」という空気にはなりづらいのではないかと思います。
身体的にも肉体的にも疲弊しているときは、何かを深く考えることもできなくなるものです。その状態で音楽のように何かを想像していく活動をするのは難しいことのようにも思います。気持ちのゆとりがあってこそ、「~してみたい」「~してみよう」という意欲が生まれ、それに対して試行錯誤しながら前に勧めていく力につながっていくような気もします。
|何かをできるようにするには、時間もかかるもの
ここまで、「部活を休んで、演奏会にいくことは“あり”」という視点から自分の考えをつぶやいてきました。(ちなみに、途中でツイートを引用したすべての方に許可はとれていないので、問題があればご連絡ください。)
ただ同時に「何でもかんでも自由に休んでいい」というのも違うと思います。
全員が何かに理由をつけて、いつも休んでばかりいたら、集団で何かをつくり出すことはできません。50名いる部活で、合奏に5人しかこなかったら、バランスも分かりませんし、おそらく同じようなことを残りの45人に伝えるためには倍以上の時間がかかってしまうこともあるように思います。1人ではハーモニーをつくることはできません。
活動日を限定した場合には、できるだけそこには集まれるような努力は個々も、指導者側も必要なのだと思いますし、その中でいかに集中して練習することができるのか、全体で模索していくことも大事です。そうやって、たくさんの人が同じ時間を共有し、一緒に一つのものに向かって努力することで生まれるものもあるのだと思います。
また、「わかること」と「できること」は違います。
短い練習時間の中で「分かった」ことであっても、それを自分で消化して、自分の力でできるようにするためには、少なからず時間がかかるものです。勉強でも、授業で習ったことをその場で理解してスラスラとできるようになってしまう人もいるかもしれませんが、多くの場合は授業で「納得」したことを、自分の「理解」につなげたり、自分の「身につけた力」として「利用する」ところまで習熟させるためには、個々の努力も必要なものです。
私が高校生の頃、数学でとても分かりやすい授業をする先生がいました。授業を聞いているだけで、内容がどんどん頭に入ってくるような気がして、授業中に解く問題は不思議とスラスラ解くことができました。しかし、定期テストの結果は散々なものでした。それは、私が授業中だけで「分かったつもり」になっていて、自分自身で使いこなすことができるようになるまで、定着させる努力をしなかったからです。
逆に、同じ数学でも難しい説明で分かりづらく、そのくせ生徒に問題をどんどんあてて黒板に書かせていく先生がいました。当てられた問題をその場で解かなくてはいけないので、必死に予習をして、それでもできなくて必死に自分で問題集を解いたり、不安を払しょくするまで勉強しました。当然かもしれませんが、定期テストは、上の先生の時よりも良い結果でした。
楽器の練習も、音楽の練習も、同じような側面があると思います。
どんなに素晴らしい先生のレッスンを受けたとしても、そこで指摘されたことを少しでも改善しようと自分で練習しなければ上達できません。部活も同じです。ただ活動日に何となく来て、言われたままに受け身でやっているだけでは上達することはできません。
何かを「自分の力でできる」ようにするためには、どうしても時間がかかります。知りたいことはネットで調べればすぐに答えが出てくる時代です。最近はどうしてもすぐにできないと、「自分には無理だ」といって諦めてしまう子どもが増えてきているようにも感じます。「効率の良いやり方」はあっても、「定着させるための努力」というものはいつの時代になっても、絶対に必要なもの。だらだらと時間をかけることには反対ですが、時間をかけて何かをやり抜くことの面白さや楽しさも、子どもたちには伝えていけたらなと思います。
|終わりに
部活の活動日を減らし、子どもたちも顧問の先生方も、自分の生活を自分でコントロールできるような環境にすることはとても大切なことです。
しかしその一方で、ただ減らせばいいというものでもないのだと思います。
限られた時間の中で、何ができるか。何をするのか。
限られた時間に、みんなが「行きたい!」と思える部活になっているのか。
そういった明確なプランを指導者側が持ち、子どもたちと共有していくこと。そして、限られた時間の中で何かにのめりこんで打ち込むことを、一緒にやっていけたらいいのかなと思います。
勉強も仕事も同じこと。
ただ長時間をかけて、時間をかけたことに満足していても何も生まれません。しかし、丁寧に時間をかけてこだわりぬくことで生み出されるものもあります。ただ数字で縛っていくのではなくて、何が大切なことなのか、大切にしたいことなのかをいつも考えながら、それを実践できるような環境づくりを心がけていきたいものです。