ありのまま自分を、安心安全の場に置いておくこと

動物は危険を感じると、身体を硬直させて、危険から身を守るようにできています。

図1.危険との遭遇

特に首は命に関わる場所でもありますし、首を固めれば脊椎全体を硬直させ、さらには全身を固めることができるので、真っ先に固める場所とも考えられます。

アレクサンダー・テクニークでいうところの「頭が動けて、体全体がついてきて」という原理原則と、「首を固める」ということは正反対の行動を指しているように思います。ですから、「頭が動けて、体全体がついてきて」という状態になっていると、より自由に身体も使うことができるわけです。

しかし、本当に危険を感じているとき、「首を固める」という行動は自分の身を守る行動であるわけで、そのようなときは「頭が動けて、体全体がついてきて」と悠長に言っている場合ではないことの方が多いように思います。

このように、身体で起きていることと、自分が置かれている環境や、自分自身の心の状態は密接に関係していて、「頭が動けて、体全体がついてきて」自分の身体がより自由に機能的に使える状態になるためには、まず自分の身を安全安心の環境に置くことができているかどうかが必要なことになってくると考えられます。

今日は、自分の心の状態と身体で起こることの関係について考えてみたことをつぶやきたいと思います。

 

身体を固めることで起きていることは?

「危険を感じる」といっても、生命の危険までは感じずとも、自分にとって不利な状況だったり、苦手に感じているものだったり、不安を抱いているものだったりを目の当たりにすることも、人間にとっては充分「危険を感じる」ことだったりします。

誰でもそうだと思いますが、私は比較的自分の周りにある負の感情を受け取りやすいところがあるので、ネガティブな雰囲気のある場所や、文句や愚痴が多い人の近くに行くと、すぐに身体を固め、縮こめてしまう傾向があります(逆に自分が誰かの体を固めてしまう原因になっていることもあると思いますが…)。

 

では身体を固め、縮めているときには、具体的にどのようなことが起こっているのでしょうか。自分自身に注目をして観察してみたところ、次のようなことが起こっていました。

呼吸が浅い
心拍数が速い

動物は危険を感じると、心拍数をコントロールしている自律神経のうち、交感神経の働きが高まり、血圧が上がり、呼吸も早くなり、筋肉も緊張状態となることが知られています。自分自身でも感じた「呼吸が浅い」「心拍数が速い」という身体症状は、この作用によるものだと考えられます。

特に「呼吸が浅い」というのは、感覚としては「息をのむ」「息を止める」という状態に近く、実際に呼吸はしているのだけれども、胸の周りに力が入って、肋骨の動きを小さくして、出入りする息の量が少なくなっているように感じました。

 

視界が狭い
視野が低く、下を向きがち

脳には、緊張するとわざと視野を狭くして集中力を高める性質があるそうです。確かに目の前にある危険な対象に集中して、危険から身を守ろうとするとき、その対象物の動きを見逃すまいと集中することは必要なことのようにも思います。

ただ、自分が感じた「視野が狭くなる」「視野が低くなる」というのは、どちらかというと危険な対象から目をそらし、「嫌なものは見たくない」というところからきているような気もしています。でも身体を固めているときは、「ふさぎ込んでいる」という表現が最も当てはまるくらい、視野が斜め下方向の一点に集中し、周りが見えなくなっていることが多いなと思います。

 

腕を組んでいることが多い

これは身体を固めることで勝手に起こるというよりは、自分の潜在意識の中で勝手にに選択してやっていることだと思うのですが、身体を固めたくなるような状況に置かれているとき、腕を組んでいることが多いように思います。

次のイラストは、私がSNSのプロフィール写真に使っているもので、クラスの生徒が卒業記念でプレゼントしてくれた白衣に書かれていた私の似顔絵です。

図2.腕を組んでいる私を描いた似顔絵

このイラストを見ても、私は腕を組んでいるんですよね…。ちょっと偉そう、、、でも似顔絵を描こうと思って、真っ先に生徒が「腕を組んでいる私」を連想したくらいですから、相当腕を組んでいることが多いのだろうなと改めて思いました。

確かに、学校にいるときは腕を組んでいることが多いかもしれません。どこかで本来の自分自身を抑制して「ちゃんとした先生でいなくてはいけない」と思ってたりするのかもしれませんね、、

ただ、腕を組むのと組まないのを比べてみると、身体を固めたくなるような状況にあるときでは、腕を組んでいた方が気持ちがとても楽なのです。恐らく、「内臓を傷つけられたくない」という動物の本能がそうさせているのではないかなと思ったりもします。

 

周囲のざわつきに敏感
集中力がなく、落ち着かない

身体を固めることで視野が狭くなり、外界をシャットダウンしていそうな私ですが、同時に周囲の情報への敏感さは通常より増していることに気付きました。

まったく自分とは関係のない話であっても、同じ空間の中で繰り広げられている会話が四方八方から明確に聴こえるようになり、その情報処理に脳が使われて集中力が散漫になり、落ち着かなくなるということが多いように思います。

本来、自分を取り巻く危険を回避しようとしたら、五感が研ぎ澄まされそうなものですが、自分の場合には目よりも耳を使って情報収集しようとする傾向が強いのかもしれません。

その真偽はわかりませんが、集中することで得られる情報が過多になることで、さらに不安感が増し、身体を硬直させ、それによって起こることが増長されていくことも少なくないような気がしています。

 

このように、本来は身の危険から自分を守るための身体の自然な作用であるはずのものが、自分自身がやりたいことをしようとしたときに妨げる要因になっていることも多いものです。

では、どのようにすれば、自分自身がやりたいことを伸び伸びとやれる状態に近づいていけるのでしょうか。

 

「ゆるめる」「脱力」ではなく、「使いたい力を使う」

単純に考えれば、「身体を固めている」の逆は、「体の力を抜く(ゆるめる)」となるかと思います。だから、やりたいことをするために「脱力しなさい」と言われることも多いのだと思います。

では、言葉の定義で考えてみるとどうでしょうか。対義語・反対語辞典で「固める」の反対語を調べてみると「とかす」とありました。さらに、「とかす」という言葉を調べてみると、次のように説明されていました。

1.薬品や熱を加えて、固形物を液状にする。
2. 固形物に液体を加えてまぜあわせる。また、まぜあわせて均一の液体にする。とく。
デジタル大辞泉より)

私は化学の教員ですので、固体が液体や気体に変化する様子を、モデル図を使って説明することがあります(図3)。

図3.水の状態変化のモデル図

図3にもあるように、固体が液体に変わるとき、変化するのは”粒子の結びつき方”であったり、”粒子の運動の状態”と説明することができます。

そもそも物質を作っている粒子は、その温度に応じたエネルギーを持って熱運動しています。固体のときはエネルギーが低い状態なので粒子はあまり動かずにその場でとどまり、震えながら”かたまって”いますが(ブルブル)、液体はややエネルギーが高い状態になっているので、粒子は少し自由に動けるようになります(にょろにょろ)。

このように、固体が「とける」ことで液体に変化する時には「よりエネルギッシュに動くようになる」といえます。

一方、脱力をしたら、力が抜けて体を動かすことはできません。脱力することで安心して休息することはできるかもしれませんが、やりたいことを精力的にやる状態からは離れていってしまいます。

 

「固める」の反対が「とかす」であるとするならば、固めるのを止めたら、より自由に、エネルギッシュに動ける状態に変化できるはずです。

このように考えてみると、「固めるのを止める」と考えるよりも、より自分の身体や心を使いたい方向に積極的に使っていくように考えてみた方が、自然なように思います。実際、アレクサンダー・テクニークを使って何かをしようとするときも、このようなアプローチで考えているように私はとらえています。

 

自分自身で「安心安全の場」をつくりだす

自分がやりたいことのために、自分の身体や心を積極的に使っていくとき、アレクサンダー・テクニークでいうところのプライマリーコントロール(頭と脊椎の関係)やボティマッピングが手助けをしてくれることはたくさんあります。

先日、セルフクエストラボの授業の中で、”職員室で自分がどう存在するか”というお題で先生と一緒に探究してみる機会がありました。

先述の通り、私は職場にいると知らず知らずのうちに身体を固め、腕を組んで安心感を得ようとする習慣があります。私が勤務している学校の職員室は生徒も出入り自由でかなり風通しが良いですし、他の先生方との関係が特別悪いわけでもないのですが、夕方になってくると、1日の緊張感がたまってくるのか、身体が凝り固まってきて痛みを感じることもあります。

どんなに良い環境であったとしても、「仕事をする」というスイッチが入ると、それなりの緊張感は走るものです。加えて、ミスをしてはいけない、手際よく進めなくてはいけない、時間通りに終わらせなければいけない、人に迷惑が掛かってはいけないなど、仕事をする上でどうしても自分自身にプレッシャーをかけていくことは、どうしても出てくるのだと思います。

というわけで実験。
試しに、職員室に入ると思ってドアを開けてみると、

うわぁぁぁぁぁぁぁ、もうダメだぁぁぁぁぁぁ~~~~~

首をギュッと固めて、身体を縮こめている自分がいました。ここまで固めていたのかと、大笑いしてしまうくらいに固めていました。

そのときふと、ちょうど就職した頃にやっていた、仲間由紀恵さん主演の「ごくせん」というドラマを思い出しました。なかなかやんちゃな生徒たちがたくさんいる教室に入る前、仲間さん扮する”ヤンクミ”先生が教室の入り口で「ファイト、オー」とつぶやいてからドアを開けるシーンが毎回あったのですが、まさに職員室の入り口で自分も「ファイト、オー」とばかりに気合いを入れて、身体も心も緊張させていたのだということに改めて気づきました。

そこで、先生に次のような提案をいくつかいただきました。

・頭と脊椎の関係を思い出す
・胸骨は骨盤の前にある
・頭の上にも空間がある

図4.自分の大きさのまま職員室に入る

はじめは、それでもなかなか初めの一歩を踏み出す前に吹き出してしまうくらい、ドアを開けた瞬間に「緊張スイッチ」が作動していたのですが、先生のサポートも得ながら、何度かチャレンジしていってみたところ、段々とブレーキが外れていって、本来持っている自分のエネルギーを使って、自然に部屋に入ることができました。

その時の、部屋が明るく広く感じること。足取りの軽いこと。

自分自身の部屋への入り方が変わるだけで、周りの環境から受けるものがこんなにも変わるものなのかと、改めて驚く出来事でした。

今実際に、朝出勤をして職員室に入る時に心がけるようにしているのですが、自分のありのままの大きさを大切にして、自分の身体の周りにある空間の広さや高さを感じて、生き生きとした身体の状態で1日の始まりを迎えると、自分のやりたいことを思い切りできるものだなと感じています。

自分の在り方が変わると見えてくる周りの環境も変わってくるもの。ともすれば、自分自身にとっての”安全安心の場所”というものは、自分自身の在り方次第でつくりだすことができるものなのかもしれません。

身体の使い方が、自分自身の心の状態や在り方そのものに影響を与えるとすれば、「身体の使い方」だけでもなく、「心を整える」だけでもなく、常に身体と心を含めた自分全体の今の状態に敏感でありたいなと思います。

特に、教師という、生徒の前に毎日立たなくてはいけない職業だからこそ、まずは自分自身が活き活きとやりたいことに向かっていきたいですし、そういう姿を生徒たちに見せていきたいものです。

人間は、体を縮めて、自分の回りに強靭なバリケードを築いて、危険から身を守るのが本当に得意だなと思います。それで自分自身を守っているから生きていけるところもあれば、それが不自由さを生んでいることもあります。ただ、本当にやりたいことがあったら、自分から外界と繋がって前に進む勇気も必要なのだと思います。

まだまだ私は自分自身を封じ込めて、身体を固めて縮こまることがとても得意です。でもそれはいざというときの防具として取っておいて、ありのままの自分を大切に、背伸びも萎縮もせずにいたいものです。

 

また明日からも、よく効くブレーキを踏む準備だけしておいて、自分自身が何者なのか、何をしたくて、そのためにその瞬間瞬間で何ができるを考えて、アクセルを丁寧に踏みながら進んでいきたいなと思います。

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ありのまま自分を、安心安全の場に置いておくこと” への2件のコメント

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