「通し練習」を考える。

中高生の頃、個人練習の時間に曲の練習をしていると、だんだんと仲間たちが加わっていき、気づけばその場にいる仲間で大合奏になっていた、という経験がよくありました。

それはそれで楽しくて好きだったのですが、先生や先輩に「勝手に合わせて通すな!」としかられた記憶もあります。

一方で、吹奏楽ではいわゆる「10回通し練習」という練習方法もあるそうです。

何が良くて、何が悪いのか。

いろんな情報がある今の時代だからこそ、吹奏楽を始めたばかりの中高生は、大人に言われることに混乱することもあるような気がします。

今日は「通し練習」について、自分が今考えていることをつぶやいていきたいと思います。

 

「勝手に合わせて通すな!」が示す意味

私自身もかつて生徒たちに「勝手に合わせて通すな」と言っていたことがあります。

それは、自分たちの解釈(CDなどの音源を耳で聴いて何となく覚えた感覚)で何度も練習をした結果、指揮者がいても指揮を見ずに勝手に進めてしまったり、間違えていてもそのまま練習して修正するのが難しくなったり、ということを極力防ぐという意味が大きかったような気がします。

また、限られた個人練習の時間に、だらだらと合わせてしまうことで、本来自分自身が向き合わなくてはいけない課題をやりきることができず、次の本番でまた同じところができなくて注意されてしまうということを防ぐ意味もあったと思います。

しかし、自分自身がそうであったように、多くの子どもたちは「合わせること」を楽しいと感じているものです。

だからこそ、“合奏”という場に向けて、個人練習やパート練習の時間で個々の精度をあげておくことで、合奏の時間をより充実したものにするべきだとは思うのですが、自分のパート譜だけではどんな音楽なのかを想像できなかったり、何となく吹けたつもりになっている段階では、個人練習の時間が長く続くと飽きてしまうこともあるのだと思います。

その中で「仲間内で合わせる」時間というのは、音楽(その曲)の楽しさを再認識するきっかけにつながることもありますし、一人で練習している時や、受け身で合奏に参加している時(←これはちょっと問題ですが)には気づかないことに気づけたりすることもあるのだと思います。

そういったことも踏まえて、個人練習やパート練習の時間に向けては、初めのうちはその時間にやるべき課題を指導者が明確に、具体的に示す必要もあるでしょうし、必ずしも「合わせてはいけない」という縛りをつくる必要はないのかもなと最近は思っています。

音楽は本来「能動的につくり出していくもの」です。子どもたちの創造する力を伸ばしていくために、どんな声かけができるのか、『禁止』という手段ではなく、『何をするのか』ということに注目して考えていきたいものです。

 

「10回通し練習」の誤解

先日、Twitterで「10回通し練習」をすることの可否が話題になっていました。

根拠となった記事も読ませていただきましたが、確かに暑い体育館の中でひたすらに繰り返すという、根性論を地でいくような表現もあり、それに対しての批判が大きかったのだと個人的には認識しています。

ただ、部活動ガイドラインもできて活動時間が短くなっている今だからこそ、「通し練習」の必要性は改めて感じていることだったりもします。

もちろん、ただやみくもに通すだけ通して、それを何回もただただ繰り返すだけの「通し練習」だったら、たとえ効果があるのだとしても、時間の無駄遣いです。

しかし、ただでさえ限られている部活の時間内だけで練習を完結するとしたら、《曲の全体像》を常に意識しながら練習をするためにも、「通し練習」に対して積極的になる必要もあると思います。

私は合奏を任されたときには、できるだけ次の流れで合奏をするようにしています。

  1. 1回通す(録音する)
  2. 録音を聴き、気づいたことをパートで話し合う
  3. 共有した方がいいことがあれば、全体で共有する
  4. 生徒の気づきも参考にしながら、部分的に確認した方がいい場所の練習をする
  5. 最後に1回通す(録音する)
  6. 録音を聴き、気づいたことをパートで話し合う

ちなみに、時間があまりない時は録音を聴く時間はとらずに、録音ファイルをクラウド上で共有しておき、それぞれ都合のよいときに聴いておくように指示をすることもありますし、必ずしも上記のように進められるとは限りません。

ただ、最初と最後に通すことで、その日の練習での「目的」を明確にし、それを達成できたかを「確認」することができますし、なかなか合奏の時間がとれなかったとしても、曲の全ての部分に2度は触れることができるので、「曲に慣れる(構造を理解する)」という上でも効率は良いのではないかと思います。

毎日少しずつでも練習できるのであれば、部分的な練習を積み上げていって、たまに全体を通すというやり方でもいいような気がしますが、練習日数が少ない場合には、できるだけ全体像に触れる時間を意図的につくらないと、「枝葉末節見て、根幹を見ず」の状態になりかねません。

もちろん、10回も通すのは時間的にも体力的にも集中力的にも厳しいので現実的ではないと思いますが、音源を繰り返し聴く中で曲の雰囲気をつかむことができるのと同じで、自分たちで何度も通し練習をする中で、曲の全体像をつかみ、愛着が増したり、「もっとこうしたい」という音楽づくりへの欲求が出てくることもあるように思います。

最近はYouTubeなどでも気軽に音楽を聴くことができるようになっている反面、いつでも聴けるという手軽さからなのか、もっと興味を掻き立てるような動画がたくさん出回っているからなのか、子どもたちの生活自体が忙しくなっているのか、普段あまり音楽を聴かない生徒も増えてきました。

音楽は決して強制するものではないと思いますが、やはりある程度深いところまで突っ込んだことのある経験がないと、なかなか「もっとやりたい」という気持ちにつながらなかったりもする気がします。

部活に入る動機は様々なので、吹奏楽部員だからといって必ずしも「音楽が好きである」という前提は成り立たないこともあります。ここが活動の上で結構難しいところだったりもします。でも決して嫌いではないはず。音楽に自ら触れる機会が少ない子どもたちにこそ、意図的に《曲の全体像》に触れてもらうことで、音楽の魅力に気づいてもらうように促すことも指導者の役割のようにも思います。

そのような意味でも、「10回」という回数にこだわらずとも、通し練習を効果的に利用していくことは大事なのかなとも思います。

 

少し話は脱線しますが、「物事の全体像をつかみながら、一つ一つ細かいところまで掘り下げていくこと」は学校の勉強でも大切なことです。

それは、入試に向けた勉強であったとしても同じことです。分野ごと、教科ごとの丁寧な理解、弱点克服のための反復学習などはもちろん必要なことですが、模試のように実際の試験を想定した「通し練習」をすることで、様々な知識を結びつけて考える問題に対応できる力を身につけたり、時間配分を考えたりという実践力を磨くことができます。定期テストのように範囲が細かく決まっていて、限られた分野だったらできたことでも、範囲が広がって、これまでに学習した知識を、異なる引き出しから瞬時に取り出せるようになるためには、それなりの訓練も必要になってきます。

だからといって、全体の概要だけ何となくつかんでいるだけで、一つ一つの知識があやふやだったり、それぞれの分野についての習熟があいまいだったりしたら、「通し練習」どころでもありません。

結局はどちらがよいということではなく、「部分的な練習」と「通し練習」をどのようなタイミングで、どのような意味付けで、どのようなバランスで行っていくのが、今目の前にいる子どもたちに必要なことなのかを考えることが、指導者には求められているのだと思います。

 

大事なのは「考えて」練習すること

どんな風に1日の練習時間を使うかは、おかれた環境や、一人ひとりの技量や意欲によっても多少なりは変わってくるものです。

しかし、いずれにしても大事なのは「考えて」練習することです。

私もできているとは言えませんが、指揮者や指導者が、1日の練習時間の中で、何を目的にし、そのためにどんな練習が必要かということを分かっていて、その上で実際に出てきた音を元にして、的確な指示を出しながら練習を進めることは、もちろん最低限必要なことです。

ただそれ以上に大切なのは、実際に音を出すことができる奏者一人ひとりが主体的に練習をすること、そしてその土台や環境を作ることだと思います。

下にあげるのは、以前作図した「現状でありがちな練習」と「上達のためのサイクル」を比較したものです。

指導者が一方的に進めていく合奏だと、つい左側のサイクルになりがちです。

右側のサイクルにもっていくためには、「振り返る」時間と、次に「実現するための方法を決める」時間を合奏の中でもつくっていくことが必要です。

「通し練習」をするときにも、一回一回それを意識付けるだけで、とても意味のある時間にすることができるはずです。

根性論だけに頼り、科学的根拠に基づいてその練習をやる理由を説明できなかったり、奏者が言われるがままに音を出している練習であったり、人道的に許されるものではないことがまかり通ってしまうことは問題だと思いますが、目の前にいるメンバーの状態を考えた上で、その練習が必要だと感じられることであり、メンバーがそれをやる理由を分かって納得の上で実行できるのであれば、方法にこだわることはないように思いますし、それを誰かが否定することはあってはならないような気もします。

目的が明確にあって、そのために何をしたら良いのかが分かって、実行してみたことを振り返ってみる。このような「最大限に思考を続けていく」練習であれば、どのような練習も効果があるのではないでしょうか。

 

おわりに:練習をする目的は何ですか?

陸上自衛隊中央音楽隊の前隊長である武田晃さんが書かれた「武田隊長の一流吹奏楽団の作り方」という本に、次のような記述があります。

技術は表現力の一部であるともいえます。まず表現したいという欲求があり、それを実現するために技術がついてくるのです。

音楽は、奏者が何かを表現し、それを聴いている人に伝えることで成立するものです。音楽を作り出す奏者が「こう表現したい」という欲求がないまま、言われたままに音を並べた演奏は、決して聴いている人に伝わることはないですし、恐らく奏でている本人も面白くないものだと思います。

誰かの演奏を聴いて憧れたり、自分の中から湧き上がってくる感情を表現するために、地道に技術を磨き、細かいところまで合わせていくことを楽しめるか。それができてこそ、本当の音楽の楽しさに出会えるのかもしれません。

私がトランペットを教えていただいている荻原明先生が次のようなツイートをされていました。

本当にここが分かれ道だな、と生徒を見ていても思いますし、自分自身ももっと音楽を学ぶことを貪欲に楽しめたらなと思ったりもするのですが、何をどうやって研究すればよいのか、研究することでどんな楽しさが待っているのかといった、「入門編」のような体験を、一通りしてもらえるようにすることも、指導に当たる立場の人間がやるべきことなのではないかなとも感じています。

そのためにも、「何のために練習するのか」、つまり「どんな表現をしたいのか」ということをメンバー一人ひとりが常に意識しながら、能動的に練習できるように、指導者からの一方通行にならない、奏者が思考することを辞めない時間を、合奏練習で紡ぎ出していきたいものです。

最後に、山口周さんという方がツイートされていたことをご紹介したいと思います。

音楽も、すぐに何かに役立ったり、すぐに結果が現れたりするものではないと思います。少し長い目で見て、子どもたちが音楽を楽しむ気持ちを持って、将来に渡って音楽との付き合いを大切にしたいと感じられるようにしていきたいなと思います。

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