教員の仕事の「時短」を考える。

「働き方改革」が世の中で叫ばれる中、教員の世界は「ブラック職場」と言われ、教育学部の学生であっても、教員という仕事を敬遠するようになってきているということが話題になっています。

確かに教員の働き方も、仕事への意識も、一般的な公務員や会社員と比べたら特殊なものかもしれません。「生徒のために」と考えたらどこまでもやることは増やせますし、だからと言って給料が増えるわけでもありませんし、それどころか「やって当たり前」という風潮も強いものです。「やりがい搾取」と言われてしまったらそれまでなのかもしれません。

私自身も、就職してすぐの頃、3か月休みなしで出勤をして「このままこれが何十年も続いたら死ぬかも・・・」と思ったことがあります。

しかしその頃は就職氷河期で、やっとの思いで企業に就職した友人たちの「朝まで帰れない」「今日もタクシーで帰った」「営業ノルマやお客さんからのクレームが大変」「正社員じゃないから先行きが心配」などという声や、「自分でやりたい仕事に就けたのだから、文句言ったら贅沢だよ」「教員なんて一般企業に比べたら楽な仕事だからいいよね」という声を耳にすることもたくさんありました。

そのような中で、「自分は好きな仕事に就かせてもらえただけで恵まれているんだから頑張らねば」という思いと、若さや生徒たちからもらったエネルギーだけで30代前半くらいまでは乗り切っていたようにも思います。

ただ、自分が中堅の年代になってきて、同じようなやり方では自分が壊れてしまうと思うこともありましたし、世の中の動きなども考えてみたところで、「もっと学校現場の環境が良いものになったら、優秀な若い先生たちが、どんどん学校現場に興味を持って入ってきてくれるのになぁ」と思うことも増えました。

ではどうすれば、もっと学校現場の労働環境は良くなるのでしょうか。

今日はその一つとして、「教員の仕事の”時短”」について考えていることをつぶやいてみたいと思います。

 

時間の枠を決めてみる

自分の勤務校の場合、就職した頃(15年前)は、職員室は基本的に22時まで開いていました。ただそれを過ぎることがあったら、最後に退勤する教職員が責任をもってセキュリティーシステムを作動させて帰るという約束になっていたので、実質0時を過ぎても職員室で仕事をしていた先生もいたようです。一方で、退勤時間についてはあまり厳しくは言われていなかったので、早い時には17時前に帰る先生もいたりして、「早く帰る時は帰る。仕事がある時には残る」というメリハリもあったように思います。

しばらくして、働き方やセキュリティーの問題もあって、段階的に施錠時間が21時→20時半→20時と前倒しされるようになりました。現在では週に1回は19時施錠、土曜は18時施錠、日曜祝日は17時施錠となっています。ただどうしても必要な場合は管理職に申し出て、若干の延長をすることは認められています。

初めは施錠時間が前倒しされることで、「本当に仕事が終わるのだろうか」「持ち帰り仕事が増える」という心配の声も多く聞かれました。自分自身も「時間に追われながら仕事をするのは嫌だなぁ」と思ったりもしました。しかし10年も経ってみると、「20時施錠」は当然のことになり、それを見越して会議の持ち方や、個々の仕事の進め方なども自然と見直されるようになり、時間の使い方が効率的になってきたように思います。

確かに今でも終わらないこともあるし、持ち帰りをすることも多々あります。ただ、全体が「施錠時間」を意識するようになったことで、個人的には早い時間に帰りやすくなり、退勤後の時間を家庭での時間や、自己研鑽の時間に当てられるようになったような気もしています。

ちなみに私の勤務校は私学ですので、労働基準法が適用されます。実質、学期中は生徒が残っている時間は補習、面談、部活・委員会指導などがありますから、生徒の下校時間(18:00)までは基本的には仕事がありますので、『変動労働制』により、勤務時間は原則8:20~18:20となっています。代わりに、長期休暇中などは短縮勤務が認められています。これについては様々なご意見があると思いますし、公立校も導入するかも?ということで議論されているところですが(教員の働き方改革、「変形労働時間制」を提案 文科省,朝日新聞 2018年10月15日)、自分自身はメリハリもつけられるし、できるだけこの枠の中で終わらせてしまおうという目標にもなるので、不自由さはあまり感じていません。

なかなかイレギュラーな案件が生じることも多く、「時間枠を決める」ということは難しいところもあると思いますし、実際に枠からはみ出ることもあるのだと思います。しかし基本的な枠を決めることで、「本当に必要な仕事」「自分が大切にしたいと考えていること」に向き合うきっかけを作ることもできるように思います。

学校単位で決めていくためには、教員一人の力でどうなるものでもないとは思いますが、自分の中で「この枠の中でできることを考えよう」という意識を持つことも大事なことですし、職員室の空気を変えていく一歩につながるような気もします。

 

ゼロベースで「必要なこと」「大切にしたいこと」を考えてみる

教員が最も苦手としていることは「今あることを削る」ことだと思います。最初にも書いたように、教員の仕事は「生徒のため」と考えたらどこまでも増やすことができるものです。したがって、伝統的に行われていることや、先輩教員がやってみて良かったこと、上の学年が取り組んでいることなど、どれもその時には意味があって導入されたことですから、「前例を踏襲しない」という選択をすることは、なかなか理解を得られないこともあるように感じます。

最近、「今あることを削る」ことが難しいのであれば、「ゼロベースから考えてみる」というのが手っ取り早い改革につながるのではないかと思うことがあります。

そのためにはまず「自分(学校)が、子どもたちにどのような力をつけさせたいか」「自分(学校)が大切に据えたいものは何か」ということを明確にする必要があります。それが、自分(学校)にとっての到達目標になります。

次に、その目標に到達するために必要なことをゼロベースで考えていきます。もちろん、すべてのことをゼロから立ち上げていく必要はありませんし、いわゆる「前例」として蓄積されてきたものを利用することは大いに役立ちます。しかし、今あるすべてのことから「要らないものを削る」と考えるよりも、必要なものだけを組み合わせて新しい流れをつくる方が、思考も建設的になりやすいですし、結果として必要のないものを効果的に削ることができると思います。

ゼロベースで考え、物事を1から作り上げていくためには、少しの勇気とたくさんのエネルギーも必要です。教員にとっては長い教員生活の中の1年かもしれませんが、目の前の生徒にとってはたった1度きりの機会だと思うと、失敗は許されないところはあります。そのように考えると、前例を踏襲しているだけの方が圧倒的に楽ですし、いざというときの責任も少なくなるかもしれません。

でも、教員自身がやる意味を感じていなかったり、その意味を語ることができないことを「前例だから」と続けていたら、教員自身にとっても、生徒たちにとっても無駄な時間を過ごすことになりますし、何より教育的ではないと思います。

何でもかんでも「前例」を捨てろとは思いませんし、ゼロベースから考えるためには時間も必要です。ただ、ここに時間をかけてみることが、教育的な効果は保ちつつ、結果的に大きな時間の削減につながることもたくさんあるのだと思います。

 

ICTは積極的に活用する

教員の苦手なものに「ICT(情報通信技術)」があげられると思います。ICTどころか「IT(情報技術)」でさえアレルギー反応を示す教員も少なくないように思います。

私も大学院生の時にデータ処理や簡単なプログラミングなどを経験したり、司書教諭の資格を取るためにITを用いた教材研究の授業をとっていたりしたので、比較的アレルギーはない方だと思いますが、最近の技術革新のスピードはめまぐるしく、自分自身もそのスピードについていくのに精一杯どころか、後れをとっているなと感じることも少なくありません。

しかし、これからはICTを活用できて当たり前の時代。子どもたちにもICT活用能力が求められる中、教員がICTを活用できなかったら仕方がありません。でも、一斉にICTの研修となるとまたそれにかかる時間が必要になります。「ただでさえ忙しいのに、これ以上やることを増やすのか」と思う教員も当然のことながら出てくるわけです。しかも、生徒間のSNSでのトラブルなどを垣間見たりすると、ICTを敬遠したくなる教員も少なくないのだと思います。

では、どうすれば学校現場でICT活用を促進することができるのでしょうか。

一番手っ取り早いのは「教員の仕事がICTで楽になる」という実感を持ってもらえるようにすることだと思います。

私の勤務校では、今年度から全教室に電子黒板が導入され、生徒に対しても段階的にタブレット端末を一人ひとりに貸与するようになりました。また、朝会や職員会議での伝達事項にはGoogleのG Suiteが用いられたり、届け出なども徐々に電子申請化されるようになってきました。

その結果、
・授業内での講義や板書の時間が減り、演習や生徒の活動する時間が増えた
・教材を複数の教員で共有しやすくなり、授業準備や打ち合わせの時間が減った
・会議で配布する資料が減り、印刷・配布の時間が減った
・情報共有がクラウド上で可能になり、会議時間が短縮された
などの効果が表れ始めてきています。

特に授業については、時短だけでなく、演習や生徒が活動する時間が増加することにより「主体的に考え、行動する力」を育む効果もありますし、動画や画像を活用することによってより分かりやすい説明をすることができ、学力の向上も期待できます。

私も現在、Google Classroomを利用した反転授業を高校生の演習の授業で取り組んでいます。具体的には、次のような方法です。

①問題集の範囲の中から、解説を読んだだけでは分かりづらい問題の解説動画を撮って10分程度に編集し、Google Driveにアップロードして、当該クラスのClassroomに共有しておく。
②生徒は授業で要点の講義を聞いた後、3~4人の班に分かれ、それぞれが解説を担当する問題を割り振る。
③次の授業までに生徒は自分の担当する問題の解説をまとめたワークシートを作成する。この際、必要ならば解説動画も参考にしてもよい。
④次の授業内でそれぞれが担当した問題の解説をし、分からないところは互いに解決できるように相談する。巡回している教員に質問をしても良い。
⑤小テストを受験する。

この場合、動画を自分で作成するという手間はあるのですが、一度作ってしまえば、指導要領が変わらない限りは大きな変更はしなくでも平気です。リクルートのスタディサプリなど業者の動画を活用すれば、その手間もかかりません。この形式は、生徒が必ず自宅学習をしてくることが前提となりますが、小テストがあるので、多くの生徒はきちんと取り組んできます。一方的な解説授業をするよりも授業内での個別対応ができ、一人ひとりの習熟度を以前より見やすくなり、逆に放課後の質問時間などは減りました。Classroomには生徒の投稿機能もついていますので、質問があればそこで共有することもできます。また結果として、導入前よりも全国模試での平均偏差値は5ポイント近く高くなりました。これも時間を有効的に使いながら、効果を上げていく一つの方法としてありなのかなという印象を持っています。

 

ICTももちろん万能ではありませんし、使い方やセキュリティーの問題など注意を払わなくてはいけない部分も多々ありますが、研修の時間を考えても、最終的には時間の短縮にかなり効果があります。時短のためには、ICTを積極的に活用していくことが絶対に必要だと思います。

 

「チーム職員室」で問題を解決していく

教員の仕事は、教科担当、クラス担任、校務分掌、部活顧問をはじめ、多岐にわたります。どれもやろうと思ったらどこまでも追究していける仕事ですから、すべてを一人で100%完璧にこなそうと思ったら至難の業ですし、すべてをこなすスーパー教員なんてそうそういるものではありません。

教員にも得意・不得意があります。それは人間なのだから当たり前のことです。不得意なことを克服するために努力することは悪いことではありませんが、「不得意なことがあってはいけない」と自分のことを追い込んだり、他の教員を追い詰めたりしてはいけません。

職員室には、様々な土台を持ち、それぞれ得意なことも異なる教員がたくさんいます。それならば、一人の教員が全てを担おうとするよりも、「チーム職員室」でタッグを組んで、一人ひとりの得意なことを出し合い、不得意なことをフォローし合いながら仕事をしていけばよい話です。

何でもできる「スーパー先生」が学校に一人いるよりも、学校の先生が「チーム職員室」で一人ひとりの生徒、先生をフォローしていける体制をつくった方が、よほど生産性があります。

たとえば、
・書類作成が得意な先生が学年だよりや職員会議資料を作成する
・事務処理が速い先生が会計を担当する
・生徒の話を聞き出すのが上手な先生がクラス委員会を担当する
など、適材適所で仕事を分担していけば、全員が同じように仕事ができなくても生徒に対してよりよい教育環境はつくれますし、一人ひとりの時短にもつながります。

幸いなことに、私の勤務校は「チーム職員室」で考えようという雰囲気が伝統的にあります。何かクラスで問題があったときには、学年団全員で考え、管理職や関係部署も加わってみんなで解決法を探ります。校長や教頭も同じ職員室にいますので、比較的相談をしやすい雰囲気もあります。このように「担任一人に責任を負わせない」という雰囲気があるからこそ、一人ひとりが自由に教育活動にあたることもできるし、良いものは互いに取り入れていこうという思考にもつながりやすいように思います。

一方で、Twitter等を見ていると、たまに「チーム職員室」が『同調圧力』となり、なかなか自由にさせてもらえないという話もよく出会います。「みんなでやる」が「足の引っ張り合い」になってしまっては本末転倒です。しかしこれは、「教員が全員同じ基準でできなくてはいけない」という思想からきていると思います。「〇〇先生はやってくれるのに、△△先生はやってくれない」と言われないように、教員の個性を無視して、全員が同じ基準で同じように仕事をするように強要すると起こりうることです。

もちろん、教員の当たりはずれで、子どもたちの成長が妨げられてはいけません。でも、「一人の教員に負わせる」のではなく、「学校全体で全校生徒全員、一人ひとりを育てていく」という意識を持つことができれば、教員の個性や長所を活かしながら、子どもたちによりよい教育を提供していけるような気がします。そして、教員一人ひとりが、「自分ですべてをこなせなくてはいけない」という呪縛から逃れることも、その一環として必要なのだと思います。

 

子どもたちの力に助けてもらいながら、子どもたちの力を育てる

教員は「子どもたちを育てていく」仕事です。しかし実際には、同時に「子どもたちに育てられる」ことも多いと思います。

つい教員は何でもかんでも「自分でやらねば」とやり過ぎてしまう人も多いと思います。自分でやってしまった方が早いことも多いのも事実です。しかし、子どもたちにできることを少しずつ任せてみることも教育の一環です。

私は割と“うっかり”が多い方なので、私のクラスには必然的に「副担任」の生徒がたくさん生じてきます。

「先生、時間割変更書いておきました」
「先生、これ配っておきましょうか」
「先生、とりあえずみんなで話し合っておきました」
「先生、明日の連絡落としています」
とクラスの生徒が言ってくるのは日常茶飯事です。誰か特定の生徒というわけでもなく、誰もが副担任の役割を担ってくれて、本当に助かっています。

若い頃は、なかなか静まらないクラスの生徒たちに対して、
「先生が何か言いたそうだから、静かにしてあげよう」
と周りにはたらきかけてくれる生徒もよくいました。

もちろんこれに甘えていてはいけないのですが、クラス開きの頃や低学年のうちに「どんな仕事があるか」「何を大事に考えてほしいか」をその都度伝えておくと、学年が上がるにつれて自分たちで学校生活を運営していこうという力も育ってきます。

教員がやらなければいけないこともあるし、壁にならなくてはいけないこともあります。生徒に任せてばかりいて、生徒が傷つけあってしまうような状態にしてはいけません。しかし、生徒ができることを少しずつ任せていくことで、子どもたちができることも増えていきますし、結果として教員でなくてもできる仕事は生徒に任せられるようになるので、時短にもつながります。そして時短につながることで、面談の時間を増やしたり、質問に答える時間をつくったりすることができ、生徒に還元できることも増えてきます。

放任していては生徒の力を伸ばすことはできませんが、何でもかんでも手とり足とりすることが教員の仕事ではありません。多少上手くいかないことがあることも分かった上で、子どもたちの力を信じて任せていくことも、必要なことだと思います。

 

まとめ:「生徒を置いていかない時短」を目指す

今日はいろいろな側面から「教員の仕事の時短」について考えてみました。私もついついやり過ぎてしまう方なので、時短ができているかというとそうでもないかと思いますが、まだまだ学校現場には時短できる要素がたくさん潜んでいるように思います。

その一番の背景には、「生徒のことを思って時間をかける教員こそ立派な教員」という潜在意識もあるように思います。それは教員間に限らず、生徒や保護者、社会からの目というものもあるのだと思います。

大事なのは、時間を短縮することばかりに目が向いて、何でも効率化をはかって、「生徒の成長を育む場」としての学校の肝心な役割を見失わないことです。

仕事自体は効率化できても、生徒の気持ちに寄り添ったり、なかなかできるようにならない時にじっくり付き合ったりする時間は、決して短縮するべきではないと思います。

子どもたちは機械ではありません。そしてまた、教員も機械ではありません。人と人が関わり合っていく中で、子どもたちの力を育てていく場が学校です。

確かに効率化を図り、無駄な時間が減っていくことで、
・子どもたちと対話する時間をつくる
・より分かりやすく楽しい授業の研究をする
・学校以外の場で教員が自己研鑽をする
・教員自身が自分の家庭を大切にする
・休養を取って、よりよい教育をしていこうとする英気を養う
といった、教員が教員として生きていくために大切な時間を確保していくことができます。

しかし、「働き方改革」という名目や仕事の効率化だけが先走りして、子どもたちを置いていかない改革になるように気を付けていきたいものです。

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