「うまく指導できない!」と落ち込んでしまう前に…

教員であったり、外部指導者であったり、生徒の中のリーダーであったり、いろいろと立場は違っても、誰かに指導をする中で上手くいかないなと感じたり、行き詰まってしまうことはあるように思います。

実際に生徒と話をしていたり、SNSで中高生の投稿を見ていたりすると、「後輩を上手く指導できない」「部活をまとめられない」と悩んでいる子が非常に多かったりもします。今日は、「指導が上手くできない」と落ち込んで、自分を責めてしまっている中高生や指導者の方向けに、今自分が考えていることをつぶやいていこうと思います。

 

不安な気持ちは、向上心の表れでもある!

私自身、教員になって15年近く経ちますが、未だに「今日の授業は上手くいったな」という手応えを感じることは稀ですし、研究熱心で素敵な授業をするなと思うような先生方も「本当に上手くいったと思う授業は年に1,2回くらい」とおっしゃっていたりもします。

生徒の反応を考えながら一生懸命時間をかけて準備して授業に臨んだものの、生徒に「わかんない!」「つまんない!」と言われてしまったり、いざテストをやってみたらあまり理解できていなかったのだなと思う答案がたくさんあったりすると、自分の教え方が悪かったのではないか、準備不足だったのではないか、生徒の様子を把握しながら適切な声かけができていなかったのではないか、と正直落ち込むこともたくさんあります。

「そんなこと言っているから、教員は甘いんだ!授業くらいいつも上手くできるようにしろ!」とお叱りの声を浴びそうな気もしますが、逆にこのどこかで上手くいっていないなという思いが、「もっと良くしていきたい」「もっと力をつけていきたい」と思う原動力になっているようにも思います。

実際に上手くいっていないにも関わらず、そのことに気づかなかったり、気づいても流していってしまったりしていたら、それ以上の向上は図れません。

ですから、自分の指導に対して不安を感じるということは、決して悪いことではないし、指導をする相手に対しても、自分に対しても、結果としてより良いものを生み出していこうとする気持ちがあることの証明にもなるのだと思います。

⇒「上手くいかないなぁ」と思うのは向上心の表れ。そんな自分を褒めてあげよう!

 

 

「正しい指導」という絶対的なものはない!

「あなたの好きな食べ物は何ですか?」という質問をされたら、あなたはどのように答えるでしょうか?

私だったら「うどん」かな。いや「ラーメン」かもしれない。
・・・う~ん、悩みます。

 

もしあなたが「寿司」と答えたとして、誰かに「それは間違いですね」と言われたらどのように感じるでしょうか?

・・・えっ、私は寿司が好きなんだけど?!

と、思わないでしょうか?

 

私たちは日々の生活の中で、「質問」をされると、「正解」を答えようとする習慣ができあがっているように思います。上記のように一見すると正解がないような質問であっても、ひょっとしたら、「相手はどのように答えて欲しいのだろう」と考えて、その場にあった「正解」を探して答えていることもあるかもしれません。

ある大学の先生に伺った話ですが、これはどうやら東アジアの人間に顕著に表れる傾向だそうです。東アジアの学問体系はもともと「儒教」が基本になっています。漢文の授業で読む「子曰く…」のあれです。「先生(師)」という存在が正しい道を教え、生徒(弟子)がそれを忠実に守っていくことが正しいことなのである、というのが刷り込まれているために、なかなか生徒の方から自由な発想で動いていくことが苦手であるという考えもあるようです。

この話の信憑性はさておき、何が正しくて、何が間違っているかなんて、実は絶対的に決まっていることなんて殆どないと思います。

 

少し話が脱線しますが、高校の化学では「ヘスの法則」という法則を学びます。
これは、「反応熱は、反応の経路によらず、反応の初めの状態と終わりの状態で決まる」という法則です。

図で書くとこんな感じになります↓↓

このように、たとえ出発地点もゴール地点もどこか決まっていたとしても、それを結ぶ手段はいくつもあるし、どれを選ぶかは人それぞれなのだと思います。

 

どれが正解とか、どれが間違いとかではなくて、自分が選んだ道を信じて貫いていけばいい。人にとっての近道が、自分にとっての遠回りになることだってあります。

とはいえ、先に進もうとするときに、道の先がどうなっているのか、確実にゴールに着けるのか確信が持てなかったら不安にもなるし、誰かに正解を聞きたくなることは当然のことかもしれません。でも、ゴール地点さえどこにあるか分かっていたら、初めのルートを外れても修正することはできるはずです。

指導でも同じことです。

誰かがその方法で成功をおさめていたからといって、必ずしもその方法で自分が上手くいくとは限りません。また、同じように指導したつもりでも、相手の状況や環境によっても、受け止められ方は変わります。

大切なのは、その時、自分ができる最善を尽くそうとしてみること。

それが上手くいくか、正解なのか、ということよりも、まず自分が思ったことをやってみることが大事なのかなと思います。

⇒まずは「正しいか」を気にすることよりも、自分ができる最善を尽くしていたら良しとしてあげる!

 

 

他人の考えや感じ方はコントロールできない!

指導をしていると、「何で分かってもらえないのだろう」と思うこともあるかもしれません。でも、「何で分からないんだ!」と詰め寄ったところで問題が解決することはありません。

人がどう思うか、何をきっかけにするか、どう行動するかはその人にしか決められないことです。世の中にはいろいろな考え方や感じ方があります。どれが正しいということはなくて、何を自分が選びとっていくかなのかなと。誰かにアドバイスはできても、誰かを否定したりする権利は誰にもありません。

自分にとって何が一番大切なのかは人によっても違うものだし、年齢や環境によっても変わっていくものだと思います。それは誰にも強制されるものでもないし、相手に強制するものでもありません。だからこそ、相手が大切にしているものも否定せずに受け止めようとすることも、とても大事だと思います。

同じ部活であっても、一人ひとり考え方も感じ方も少しずつ違うものです。むしろ一緒じゃないから、一人ひとりのいいところを出し合って、弱いところをカバーし合えたりもします。自分の思い通りにならないこと、分かってもらえないと思うこともあると思いますが、相手もそう思っているかもしれません。

どんなに親しくても、全く同じ考えで同じ価値観の人はいません。もしそう感じることができる人がいたとしたら、知らず知らずのうちに、お互いの考えを受け入れ尊重し合える関係になっているのだと思います。それはすごいことです。少しくらいぶつかったっていい。それくらいが当然のような気もします。

結局は「互いに考えていること」を受け止め合えるかどうかなのだと思います。

たとえ自分とは相反する考えだったとしても、「そう考える人もいるかもな」と思うのと、「そんな考えはありえない」と思うのではだいぶ対応が変わってくると思います。

受け止めることと、それを採用することは違うことです。いろいろな考えを受容しながら、自分がこれはいいなと思うことを提案していければいいような気もします。それが絶対的に正しいことではないかもしれないし、それを選んだことで上手くいかないかもしれない。でも、自分で選んで実行したことは、決して間違えではないのだと思います。

一方で、相手に対してや特定のものに対しての思い入れが強かったりすると、人にも自分が考えている近道のレールを勧めようとするのも親心だと思います。進む道の先が断崖絶壁だと分かっているのに、黙ってその道を行かせる親はそうはいないと思います。それが鬱陶しいこともあるだろうし、絶対その助言を聞かなければいけないこともありません。

子どもたちが本当に自分が真剣に考えて、自分で進んでみようと思う道ならば、そこに進めばいいのだと思います。大人の期待に必死になって答えようとする必要はありません。逆に大人もすべて子どもが素直に言うことを聞くと思っていてはいけないし、言うことを絶対的に聞かせようとしてもいけないのだと思います。サポートや倫理的にしてはいけないことに対して壁になることは必要でも、子どもたち一人ひとりの人格を大切にしていきたいものです。

このように、どのような立場にある人間であっても、誰かの人生を決定するような決断を強制する権利はありません。最終的に大事なのは、本人がどんな道を歩みたいと思うかというところなのだと思います。

それだけに、生徒同士、先生と生徒という関係にとらわれず、自分が良いと思ったことを具体的に提示していくことは必要なことなのかなとも思います。でも、やはり生徒の中では顧問や先輩という存在はいい意味でも悪い意味でも強いもの。それを認識した上で、指導にあたれたらなとも思います。

⇒最善を尽くしても意見が違ったら、「そういう人もいるんだな~」と受け止めてみる!

 

 

ぶつかるのも、上手くいかないのも当たり前ととらえてみる!

最近は生徒同士がぶつかることがないように配慮することも増えてきました。もちろん、むやみやたらにぶつかっていても仕方のないことですし、傷つけ合ってしまうことは避けるべきだと思います。

しかし、やはり一人ひとり違う考え方の持ち主ですし、成長過程にある子どもたちが自分の考えとは違う相手に対して「なぜ?」という疑問を持つのは当然のことですし、それが元となってぶつかってしまうことは、あり得る話なのだと思います。

ただ大事なのは、ぶつかりっぱなしにしないこと。

無理して理解しようとしなくてもいいし、根本的にわかり合えないこともあるかもしれません。でも、そこで互いに無関心になって、関わることさえ止めてしまったら、共に音楽はつくれません。どこか一つでも、相手のいいところを見つけられたらなと思います。

一つもいいところを見つけられないような極悪人は、世の中にもそうはいないと思います。どんな人にだっていいところはたくさんあるはずです。逆に自分にだって相手から見て嫌なところ、悪いところもあるはずです。直せるものは直した方がいいかもしれませんが、そうもできないこともある気がします。同じ性格でも、ある人から見たらいいなぁと思ったり、別の人から見たら苦手だなぁと感じることは大いにある話です。

吹奏楽は大人数で一緒に音楽をつくっていく形態です。どうしても、いろんな考えの人が集まってきますし、その中で苦手な人や、意見がぶつかる人、なかなか自分の伝えたいことを分かってもらえない人もいるのだと思います。それは仕方のないことです。

でも、これを逆手にとってみるのも面白い気がします。

確かにみんなが同じ方向を向いて、同じ考えで、同じように目標に向かっていったら早く目標に近づくことができるかもしれません。しかし、誰かがそこで「その方向で本当にいいの?」「自分はそうは思わないなぁ」と釘を刺すことで、今まで見えなかった新しい視点に気づいたり、物事をもっと深めていくためのきっかけをつくることもできるかもしれません。

ぶつかったり、上手くいかないことがあるのは当たり前。むしろ、そこからどうしたいと思うのか、いろいろ考えたり仲間と話したりする中で、盲目になっていた自分に気づいたり、もっといいアイディアが浮かんだりしてくるようにも思います。

⇒上手くいかないのは儲けもの! 自分は新しい考えに出会うチャンスをもらえたと思ってしまおう!

 

 

まとめ

人がどう思うか、何をきっかけにするか、どう行動するかはその人にしか決められないものです。

指導が上手くいかないなと感じたとき、もちろん自分にも原因があるのではないかという視点で考えてみることは必要なことです。でも、上手くいかないのは決して自分のせいだけでもありませんし、上手くいかないと感じているのは自分だけかもしれません。

上手くいかないと思ったら、まず相手がどのように感じているのかというところをゆっくり聞いてみることかなと思います。その中で自分が直せるところがあれば直す努力をすればいいし、相手と気持ちがすれ違っているのが原因であれば、少しずつ埋め合わせていけばいいのだと思います。

「指導する側」「指導される側」というスタンスの違いはあるかもしれませんが、一緒に音楽をつくったり、授業をつくったりしていく同志であることには代わりありません。そこには、直接コミュニケーションをじっくりとって、互いがどのように考えたり、感じているのかを知ることも大事なことです。

最近は情報もたくさんあって、いろいろなやり方を目にすることも増えてきていると思います。それだけに、自分にとってなにがいいのか分からなくなったり、「こうすれば上手くなる」的なマニュアルを求める傾向も強くなってきているのかなと思うこともあります。

でもどんな立派なマニュアルやメソッドでも「絶対」というものはなくて、参考にしながら、自分でよいと思うことは取り入れて、実際に実験してみて、これは自分(の指導する環境)に合っているなと思ったものだけ引き続き採用していけばよいのだと思います。

何が正しいのか、何が合っているのか、何が上手くいくことなのか、それは状況によっても、人の感じ方によっても違うこと。指導する人が自分の考えを明確に持っていなくて迷ってばかりいたらさすがに困ることもあると思いますが、必ずしも自分が常に正しい存在でいなくてはいけないわけでもありません。

その時、相手に対して、最善を尽くそうとしてみていたら、それでいいのだと思います。

今日は精神論みたいになってしまいましたが、また具体的な例もあげながら、指導について思っていることは書いてみたいと思います。

 

 

 

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