教育的配慮とはどんなものかを考える

Facebookで「教育的配慮」という言葉が少し話題になっていたので、ここでは、自分の見解を少しつぶやいていこうと思います。
「教育的配慮」という言葉はよく使われるけれど、言われてみると結構曖昧な言葉だったりもします。でも、人が育っていく過程には、失敗することも大切だし、だけど大きく道を外さないように修正することも大切です。だからこそ、これから育つ可能性の芽をつぶさないための「教育的配慮」は必要なのだと思うのです。
だからといって、単に簡単なことをやらせることや甘やかすことが「教育的配慮」だとは言えない。時には厳しさも、壁となって立ちはだかることも「教育的配慮」には含まれるように思います。要は一人ひとりの状況に合わせて、その人が今成長するために一番必要だと思うことをすることが「教育的配慮」なのではないかと思います。
何が教育的で、何がそうではないのか。それは人それぞれの価値観によるものだと思います。でも少なくとも自分は、本人が少しの成長でも実感することができて、自らの足で少しずつ前に進んでいけるように促すことが教育の場にいて大切なことだと思うし、そういう教育ができる教員になりたいと思うのです。
そのためには、やっぱりまず自分が学び続けることが大切なのだと思う。結局いつもこの結論にたどり着くわけだけど、大阪桐蔭の梅田先生が仰っていたように「共育」という考え方が必要なのかもしれません。共に育てられ、育てていく。そんなイメージをもちつつ、現場に向き合いものです。
(Twitterまとめ)

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