教師は、決して“調教師”じゃない。

ご無沙汰しております。おのれーです。
気づけば、約半年ブログ更新していませんでした・・・
これからも気まぐれに更新しますので、お付き合いください。

さて、先日こんなツイートをしたところ、かなりの反応を頂きました。

実際に調教師をされている方には失礼な表現になってしまい申し訳ありません。とりあえずここでは、指導者が生徒に対して時に暴力も使って言うことを聞かせる、しつけをするという意味で使わせていただきます。ご容赦下さい。

ここのところ、アメフトの問題をはじめとして、部活動における行き過ぎた指導や児童虐待のニュースが世間をにぎわせています。その度に、心が苦しくなります。

とはいえ、自分自身、中高時代、そして教員になってからも、力で誰かを押さえつけようとしたり、その結果、相手を傷つけてしまったことはたくさんあったと思います。一生懸命になればなるほど、自分の考えに固執して、相手の想いを尊重することなく、一方的に感情的になって威圧的な言葉を投げかけてしまったこともたくさんありました。今思うと、そうやって傷つけてしまった相手には申し訳ない気持ちしかないし、謝っても許されるものではないなと思います。

今、自分がこうして発信しているのは、逆に自分がそうした威圧的、暴力的な言葉を投げかけられ、完全に自己否定ループに陥ってしまい、本当に立ち直れなくなったことがあったからです。それがきっかけとなり、自分自身がしてきたことへの懺悔の思いと、これからの生徒たちに絶対に同じ思いをさせたくないという思いがあって、このブログでも何度となくこうした問題について言及してきました。

今日のブログも、今だからこそ改めて伝えたい、言いたいと思ったことをつぶやいてみようと思います。

 

なぜ、威圧的・強制的な指導が連鎖していくのか?

教員の中には、
「だまって言うことをきくのがいい子」
「恐くしてでも言うことをきかせなきゃいけない」
と考えている人もまだまだ少なくない気がします。

それは、教員になる人の多くが、学校ではいわゆる「いい子」として育ってきた人が多いことに起因しているかもしれません。いわゆる「悪い子」だったとしたら、先生や学校は反発すべき対象だったでしょうし、そんな対象にわざわざ自分がなろうと思う人は稀でしょう。

私自身は毎日遅刻ばかりだし、宿題は出さないし、成績も決して良くなかったし、友達とケンカばかりして先生を困らせていた「問題児」ではありましたが、それでもどこか「いい子」になろうとしていたような気もします。

人は自分が育ってきた環境を基準にして生きているものです。だから目の前の環境に疑問を持たずに、それが当然だと思って生きていたら、客観的に見て理不尽なことさえ当たり前のことに感じることもあるような気がします。

だから戦後、いわゆる「体育会系」の軍隊式の教えが学校教育の中に根強く残ったのも、それを良かれと思って代々引き継がれていったという歴史があるのだと思います。

確かに威圧的だったり、強制力の強い指導は、手っ取り早く結果を出せるかもしれません。理不尽なことでも、それをおかしいと思わせることなく、全員が教員の言うことに右へ倣えで行動していく。それは統制がとりやすいですし、工業化社会が進む中で、工場の歯車となって勤勉に働く労働者を育成するにも丁度よい教育方法だったのかもしれません。そしてそれは、今の経済発展の土台となっていることも否めません。

そのような中で、威圧的・強制力の強い指導によってもたらされるいい結果の積み重ねが快感になっていったのかもしれないし、次世代へ連鎖していくこともあったのかもしれません。そしてそれが未だに教員の意識の中に根強く残っている面もあるのだと思います。

しかし、教育は手っ取り早くできるものではありません。

威圧は反抗や萎縮を生むものです。教員が威圧感をもって生徒に接したら、生徒もそれに対抗してもっと反発することもありますし、逆に委縮して自分の意見を一切言うことができなくなってしまうこともあります。それは決して教員にとっても生徒にとっても、互いに良いことだとは思えません。

もちろん。危険が及ぶ場合や暴力暴言に対して強く叱ることは必要ですが、何でも頭ごなしに怒鳴り付けるのはまた違うことです。

どんなに良いと思っていることでも、自分にとって、周りにとって、本当に良いことか問う姿勢を忘れてしまうと、実はとんでもなく人を傷つけてしまうことにつながることだってあり得ます。

信念を貫くことも大事だけれど、貫くために誰かの信念を潰しにかかってはいけません。結局は向かう方向性を一つに決めていく必要があることでも、みんなの信念をそれぞれ大事に活かしながらまとめていく方法はあるのだと思います。感情論で相手を潰しにかかるなんてもってのほかです。もっと建設的に考えたいものです。

そして、人として一人ひとりとじっくり付き合っていくことが、今求められているのだと思います。

 

「集団づくり」は“1つにまとまること”とは限らない!

「みんな同じようにできなきゃいけない」「みんなと足並みを揃えなきゃいけない」と強制することは、とても窮屈なことです。一人ひとり、自分なりの精一杯は、向きも大きさも違って当然です。

「皆やってるんだから、お前もやれ」というのも、「お前がやるから、皆もやらなければならなくなるんだからやめろ」というのも、どちらも自分の意思と反する強制力がはたらくから息苦しくなります。

無理にベクトルを揃えるより、一人ひとりのベクトルをうまく合成して、みんなで目的に向かえたら、みんなHAPPYになれる気がします。要は、一人ひとりがやれることをそれぞれやって、助け合えればいいのだと思います。

しかしつい、吹奏楽など集団で1つのものを作り上げようとするときには、結果だけでなく過程も足並みをそろえ、統一させなければ!という思いが強くなっているように感じます。それが行き過ぎると、一人ひとりの個性が押し殺され、指揮者(指導者)の神格化、独裁政治が始まってしまうことがあります。

うまいこと洗脳されて、特に苦痛に感じずに楽しくやっている分にはいいのかもしれませんが、そのせいで好きで入ったはずの部活に、だんだん義務感で行くようになり、強制的にやらされるものになってしまうのは残念なことです。

決して軍隊式、絶対服従の関係でなくても、音楽を厳しく追究していく道はあります。つい体育会系指導について批判すると「そんなんじゃ上手くなれない」「音楽はそんなに甘くない」というご意見を頂くのですが、ただ楽チンというのではなくて、何かを追究してみる中で知る喜び、できるようになる喜びを感じて、自ら楽しみを見出だし、本気で自分に厳しく向き合うことで、上達や成長を促すことは十分に可能なことだと思います。

社会人バンドでも、
「休日わざわざ趣味で楽しむためにお金も出して練習に来てるんだから、罵声浴びせられたり、攻撃されたりしたくないよね」
という声を耳にすることがあります。

これは部活の生徒にもあてはまるような気がします。好きで楽しもうと思ってやろうとしていることに、罵声も暴力も威圧もいりません。それは大人も子どもも関係ありません。

「上手くなる=厳しさは必要」というのは確かです。でもそれは「自分が本当にやり遂げたいと思うことを貫く意志の強さ」であって、決して「厳しさ=罵声、暴力、威圧」ではないし、人から強制されるものでもありません。強制力は受け身の姿勢しか生まない。そうじゃない指導を考えたいものです。

アメフト部の問題でも、コーチが「優しすぎるのが悪い」と加害選手に迫ったとの報道がされていました。でも、「優しすぎるのが悪い」なんてことはないのです。確かに他人に優しすぎて、自分を犠牲にして、自分が苦しくなってしまうことはあるかもしれません。しかし、優しさにつけこむ人の方が悪いし、自分にも他人にも優しくできる人は、本当に強い人なのだと思います。「恐い」「強い」と「厳しい」が同義でないように、「甘い」「弱い」と「優しい」も意味は違います。優しいからこその厳しさもある。厳しいからこその優しさもある。そういうものなのだと思います。

 

教師は「司会進行役」である!

もう20年近く前になりますが、教育実習で中学生のクラスの研究授業をしたとき、授業を見に来ていた大学の教職担当の教授が、私にこう言いました。

「君の授業は、実験を散りばめただけの講義。生徒が能動的に動いていない。教師っていうのはね、授業の「司会進行役」なんだよ。君は進行を邪魔しているよ。」

正直図星だったのですが、頑張って準備した授業だっただけに、悔しくて、不甲斐なくて、その場で涙が止まらなくなりました。それから教員採用試験の時も、教員になってからも“教師は「司会進行役」である”という言葉は、いつも自分の心の片隅に存在しています。

今回のアメフト部の問題に関連して、Twitterのタイムラインに
「権力者は“自発的にやる”ことをやらせるんだ」
という言葉が流れてきました。

この言葉、指導にあたる立場の人は本当に気を付けなきゃいけないことだと思います。今、教育現場では”アクティブラーニング”が叫ばれ、生徒の自主性や能動性が重視されるようになってきました。もちろん生徒が自主的、自発的に考え、動けることは大切です。しかし、「自発的にやっているように見える生徒を育てる」ことに尽力して、結局アクティブに動く生徒を“つくろうと”していたら、それは本末転倒です。せっかく自主性を育もうというのに、そこに強制力があったら、それはただの指導者の自己満足。本当の自主性とは何か、私たちは問い続けなければいけないと思います。

子どもたちは、ちょっとしたヒントやアイディアを提示するだけで、私たちが想像しないような発想で物事を進めることがあります。もちろん、遠回りをすることもあるし、大人からしたら失敗が見えてしまうことにチャレンジしていくこともあるかと思います。でも、その中で、自分自身で納得がいく方法を見つけたり、仲間と協力することを覚えたり、ただ知識だけではない、経験を通じた学びを獲得していくこともたくさんあるのだと思います。

もしかしたら、大人が張り付いて教え込んだ方が、早く結果が出るかもしれません。でも、一方的に教え込んでしまうばかりでは、どうしても意識が受け身になってしまい、将来にわたって活用できる力として身につけられないこともあります。

私は現在、高校生の授業で、新しい内容を進める授業では割と一方的な講義をしていますが、演習がメインの授業では、反転授業(生徒が自宅で問題を解いてきたものを、授業中に他の生徒に教える)を導入しています。今のところ、やはり一方的な講義よりも定期テストなどの解答を見ると理解は深まっているように感じます。

自分自身で学ぶ力をどのように身につけるか。これからさらに求められてくるでしょうし、それだけに、大人のペースで教え込んでいくのではなく、一人ひとりのペースに合わせてヒントを出しながら、じっくり成長を見守っていくようなスタンスがより必要になってくるように思います。

 

変わったのは「学生・生徒」じゃない!

この頃「最近の学生の気質は変わってきているから時代に合わせて…」というコメントをよく耳にします。でもよく考えてみるとどの時代でも言われてることだし、敢えて言うならSNSなどが普及して、「理不尽なことは理不尽だと言っていい」という雰囲気ができただけで、変わったのは環境なのではないかと思います。

いつの時代でも、その人の存在自体を脅かすような、暴力的に支配する関係というのは、どの環境においてもあってはいけないものです。

ただ一昔前までは、個人が声を上げる環境がなかっただけなのではないかと。何でも「○○ハラ」と訴える風潮は好きではないけど、個人が声を上げられる環境は大事だと思います。

そしてそれは、教員から生徒だけでなく、生徒から生徒、生徒から教員、教員から教員という関係においても言えることです。相手の存在を著しく脅かすようなことは、どんな関係性においても許されません。そこが脅かされていたら、断固許すまじ!という姿勢を見せることも必要なのだと思います。

「何で分かんないの!」「何でできないの!」とキレたところで、本当の解決策にはならない。お互いが何を目指し、それを達成するために何ができるか、立場は関係なしに、納得できるよう話し合い、理解し合えたらいいのです。

まして教員だったら、そこから逃げちゃいけないなと思います。

まずは教員や子どもの育成に関わる全ての大人が、時代や子どものせいにするのではなくて、ましてや自分が受けてきた教育を押し付けるのではなくて、目の前の子どもたちにとって何が必要なのか、何がいいことなのか、みんなで考え、支え合いながら、子どもと向き合っていけたらと思います。

自分もまだまだです。頑張ります。

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