【根性論】をやめて、【根性】論でいこう!

先日、Twitter上で「根性論」についてのツイートがタイムラインをにぎわせていました。いろいろな意見が飛び交い、時にぶつかり合う中で、「みんな根底には『生徒に成長してほしい』『自分自身が成長したい』という前向きな望みがあるのだよな」と感じることも多く、相容れないものとしてぶつかってしまうよりも、それぞれの主張するところを受け入れあえたらいいのになという感想を持ちました。

私自身、これまでも「根性論」についてはブログでもいろいろ書いて、ネガティブキャンペーンを展開してきましたが、今回は改めて「根性」という言葉について考えることで、最近は「根性論」という言葉でネガティブなイメージがつきがちな「根性」という言葉をポジティブワードとしてとらえていけたら、という視点でつぶやいてみたいと思います。

 

「根性」という言葉にはどのような意味があるのか?

「根性」という言葉は、私たちにとって割と身近で、特別に辞書を引いてまで使っている言葉ではないようにも思います。もし生徒に「【根性】ってどんな意味ですか?」と尋ねられたら、的確に答えられるか…と思い、改めて辞書で意味を調べてみました。

こんじょう【根性】 (大辞林 第三版)
① 生まれつきの性質。根本的な考え方。
② 苦しさに耐えて成し遂げようとする強い精神力。
③ 〘仏〙 仏教信者としての宗教的素質。根機。

まず初めにあげられているのは「① 生まれつきの性質。根本的な考え方」という意味です。Google検索で調べてみても、トップに出てきたのは「その人の性質全般をつらぬく、根本的な(強い)性質」という説明でした。

しかし一般的には、「② 苦しさに耐えて成し遂げようとする強い精神力」という意味で使われていることが多いようにも思いますし、自分自身も「根性」という言葉を使うときには「努力」や「気合」とセットで使うことが多いように思います。

たとえば、スポ根アニメの定番ともいわれる「巨人の星」。主題歌は次のような歌詞で始まります。

思い込んだら 試練の道を
行くが男の ど根性

「巨人の星」が放送されていたのは1968年~71年、シリーズ最終作が1979年と今から40~50年前ですから、ちょうど現在の40代後半から60代前半くらいの方が子ども時代に見ていたアニメだといえるでしょう。一般化するのはよくないかと思いますが、自分も含めて30代後半くらいまでの世代は、この「スポ根」の影響が、少なからず部活に色濃く残っていた世代だと思います。

一方、1994年に発表されたSMAPの「がんばりましょう」という歌の中には、次のような歌詞があります。

東京タワーで昔
見かけたみやげ物に
はりついてた言葉は
“努力”と“根性”

いまから20年以上前、すでに「努力」と「根性」は「”昔”はりついてた言葉」となっていたわけです。でもちょうどその頃中高生だった自分は「努力と根性と気合いこそがすべて」だと思って部活をやっていましたし、それに何の疑問も感じていませんでした。

しかし、初めにあげたように、「根性」の元々の意味は「その人の性質全般をつらぬく、根本的な性質」だと言います。さらにその意味のもとは、③にもあげられているように仏教用語からきている言葉だということで、仏教語辞典でも調べてみました。

【根性】 (仏教語辞典)
①機根に同じ。宗教的素質・能力・性質。精神的素質。
②素質をもつ者。
③根は素質。性は本性。
④気力の本を根、善悪の習慣を性、という。

私は仏教についてはまったくの不勉強ですのでここで解釈することは避けますが、「素質」「本性」「気力の本」という言葉から考えると、本来「根性」いう言葉が示すところは、その人自身、その人らしさを示すものであったのかなと推測することができます。

 

「根性」を大事にするからこそ、「根性論」に頼らない

このように本来の意味の「根性」を考えてみると、「根性」を大切にして活かすことは、その人自身の持っている素質を活かすということですから、教育現場でもビジネスシーンでもプライベートでも大切なことだと思います。

また、物事を成し遂げるために「コツコツと根気強くやり抜くこと」という意味でも必要なことだと思います。すぐにできてしまうこともあるとは思いますが、目標を達成するためには、少なからず試行錯誤しながら時間をかけて取り組むことも必要ですし、途中で諦めてしまうことなく継続して取り組むことも必要なことです。

しかし、いわゆる「根性論」「スポ根」は、また違う意味合いで使われているように思います。

では【根性論】の定義はどのようなものなのでしょうか。辞書的な定義は今回見つけられなかったので、Wikipediaでの見解をここでは書いておきたいと思います。

【根性論】
苦難に屈しない精神=根性があれば、どんな問題でも解決できる・またはどんな目標にも到達できるとする精神論の一つ。

確かに自分が「根性論」という言葉を使うときには、このような意味でつかっているような気がします。そして、恐らく私も含め根性論反対と言っている人は、「精神力(忍耐力)“だけ”」で何でもやらせよう、他に手段はないとすることに反対なのだと思います。

このあたりのことについては、トランペットのレッスンをしていただいている荻原明先生がブログにまとめられています。

 

ここでも述べられているように、生徒一人ひとりが自分らしさを発揮するためには、たまにはちょっと強引に感じるくらいに背中を押す必要があることもありますし、何か物事をやり遂げる時には、時に壁にぶつかることがあっても、あきらめずに努力を続ける精神力は必要なものです。

ただ一方で、指導者の言うことが絶対で、生徒の意思はまったく反映されないというところまでいってしまうのは別問題です。そして、従来の「根性論」というものがそのような性質が強く、生徒の意思を完全に無視するものだったりしたこともあると考えると、やはり「根性論」だけで何事もやっていこうとするのは問題です。

なぜなら、それは生徒一人ひとりが持っている「根性」を潰すことにもなりかねないからです。

「根性」を大事に育てようとするからこそ、「根性論」だけでやってはいけない。私はそんな風に感じます。

 

「根性」を大事にすることで、チームを育てていく

ここまでのところで、私が考える「根性論」と「根性」は次のようなことです。

《本来の意味から考える【根性】論》
自分が持っている根本的な性質(=才能、個性)を活かすために、工夫もしながら努力すること。

《いわゆる【根性論】》
指導者に言われるがままに、ただ物事をこなし続け、暴言暴力にも耐え、強い精神力だけで何かを乗り越えようとすること。 

このように考えてみると、何かを達成し、自分の強みを生かしていくには「【根性】論」でいくのがよいようにも思います。では、「【根性】論」で物事を進めていくとしたら、具体的にどのように進めていけばよいのでしょうか。

先日同僚に誘われて参加した教員向けワークショップでハッとさせられた言葉に出会いました。

それは、
「自分の強みは活かして、弱点は克服しようと”しない“」というものです。

つい現状では「強みを活かす」はあっても、「弱点を克服せねばならぬ」という面は大きいように思います。仕事でも勉強でも、自分に足りないことは何かを考えて、そこを経験によって穴埋めし、できるだけオールマイティーに力を発揮できるようにした方がよいと考えることは多いのではないでしょうか。私も苦手なことでも頑張ってやらなければ、と考えて物事に取り組むことは少なからずあります。

しかし、言われてみれば、誰かの苦手は誰かの得意だったりするものです。苦手なことに足を引っ張られて得意なことを見失ってしまうよりも、自分が得意なことややっていて楽しい、好きだなと思えることをやって、自分の能力を使っていった方が、自分にも周りにも好影響なはずです。

仲間に対しても、「あの子はこれが得意だから任せちゃおう」「この子はあれは苦手だから違う子に回そう」などと、個々の得意不得意を理解して、得意を活かした役割分担ができたら、できなくて誰かを責め立てることも減るでしょうし、それぞれが自信をもって自分の役割を全うしようとするようになるような気がします。

このように個々の力を活かすことこそ、その人が元々持ち合わせている「根性」を活かすことのように思います。そして、一人ひとりが「根性」を活かすことで、チームが活性化していき、一人では達成することのできない大きな目標に近づいていけるのではないかと思います。

 

「根性」を利用して、個の力を伸ばしていく

しかし、一人ひとりの「根性」を活かせるようなチームづくりをしたとしても、個の力が直接問われてしまうような場面では、苦手なものから逃げることはできないこともあります。

例えば、大学入試であれば苦手分野がたくさんあったら合格点には到達しませんし、楽器の練習だって苦手なものから逃げてばかりいたら目指す演奏に近づくことができません。また「合奏」という場で考えても、個々が最低限“ここまでは”ということができていなければ「合わせる」というところまで到達できません。

ある程度は苦手なものでも「経験」と「努力」によって克服できる面はありますし、ただ「苦手だからやらない」となってしまうのは、その人の「根性」を活かしきれないことにつながることもあるように思います。

そこで考えられるのが、個々の「根性」に応じた苦手克服法です。

本人が「苦手を克服したい」という望みを持っていることがまず前提となりますが、できるだけ自分の得意なこと、自分の「根性」を活かした方法を活かして克服するとしたら、例えばどのような切り口があるのかを考えてみました。

1)地道にコツコツ「真面目型」
普段から基礎練習を怠らず、少しずつできるようになる喜びをかみしめながら真面目に練習をする人だったら、苦手そうなパッセージを含むエチュードを先生が選んで渡して、「今週はこれ」「1つできるようになったら次に進む」というように地道に課題に取り組んでいく中で、できるようになるものが結果として増えていくことはあると思います。もちろんただ繰り返すだけでなく、1回1回どうだったかを振り返りながら練習するようにうながす必要はありますが、結果をすぐに求めるのではなく、継続して取り組んでいくことを褒めながら、長い目で見守れるといいように思います。

2)論理的に分析してて物事に取り組む「慎重型」
どうしたらできるようになるのか一つ一つ分析したり、人や本からの情報などを自分でかき集めてきて、何とかできるようになる方法はないか考えて取り組む習慣のある人だったら、単に繰り返し練習をさせるのではなく、本人が良いと思う方法を一つ決めたらまず徹底して取り組んでみることを促していけるとよい気がします。原因が分からないことや、意味が理解できないことを繰り返しやらされるのは苦痛になってしまうので、本人が進む道を決定していくことが必要だと思います。

3)新しいことを生み出すのが得意な「クリエイター型」
誰かに言われたことや、定番と言われることをそのままやるのが好きでなかったり、切り替えが速くてどんどん新しいことに興味が移っていく人であれば、自分で練習方法を編み出していくのもよいかと思います。決められたエチュードをコツコツと、というよりは、IMSLPにあるような譜面を利用して、どんどん新しい曲に挑戦する中で苦手なパッセージを克服していくような方法も使えるような気がします。

4)仲間となら頑張れる「人が大好き型」
一人だとなかなか頑張れないけれど、誰かと一緒だったら頑張れるという人は、そういう人同士でペアを組んで、互いに課題を出したり、気づいたことを言い合ったりしながら練習を進めていく方法が良いと思います。時々できるようになっているかをチェックしたり、人の目に触れる機会をつくるようにすることで、頑張れることもあるように思います。

5)目標達成のためには労を惜しまない「没頭型」
明確な目標があれば物事に没頭できる人は、細かく目標を立てて、一つ上手くいったらさらにもう少し上の目標を…というように、最終的なゴールにたどり着くための道筋に、中継地点となるような目標を明確に定めて、それをクリアしていくように練習計画を立てていくとよいような気がします。

 

このように、苦手に向き合わなければいけないときでも、指導者が「これだ」と思っている一つの方法を押し付けてやらせるのではなくて、一人ひとりに合った方法、一人ひとりの「根性」を活かせる方法を提案したり、選択できるようにしたりしていくことで、より一人ひとりが自信を喪失させることなく、前向きに苦手にチャレンジしていけるのではないかと思います。

何より大切なのは、一人ひとりが自分の「根性」を好きになって、その「根性」を活かしていくために必要だと思うことに、どんどん挑戦し続けてみることです。

今勉強しているアレクサンダー・テクニークも、自分の中にないものをいきなりできるようにする魔法のようなものではなく、元々自分が持ち合わせている能力を、使いたいときに十分に発揮していくための手段の一つだと思います。だからこそ自分自身と向き合うことも必要だし、自分自身のことを知って、受け入れて、その上でいかに「本当の自分らしさ」を使っていけるようにできるか、努力と工夫を積み重ねていくことで、自分の望むものに近づいていくことができるようになるのだと思います。

自分の持っている「根性」は変わらないもの。
だからこそ、「根性」と付き合い続けて、大切に育てていけたらと思います。

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