一番じゃなくちゃダメですか?

今朝、コピーライターの糸井 重里さん(@itoi_shigesato)がTwitterで次のようなツイートをされていました。
かなり真剣に陸上競技をやっていたという人が、高校時代の指導者に「1番以外は、すべて中途半端なのだ。何番でもビリと同じだ」と教わったことばが、ずっと残っていると話してくれた。「そういう考え方もあるけれど、それは忘れてしまったほうがいいんじゃない?」と、ぼく言った。

以前、某国会議員が「2位じゃダメなんでしょうか?」という発言をして話題になったことがありました。私も研究をかじった人間としては、2番煎じでは“発見”とは言えなくなりますし、1番だからこそ認められることがあるのはよく分かります。特に国を挙げてのプロジェクトともなれば、1位を目指して取り組むことは必然だとも言えると思います。
でも、必ずしも、どんなときも、誰もが一番でなければならないというわけではないと思います。
一番を目指すことは悪いことではないし、一番を目指すべき時もあると思います。でも一番でなかったとしても、その人にとって一番になろうと努力したことは決して無駄にならないはずです。一番じゃないからこそ見える景色もあります。一番になれなかった悔しさ、一番の人を見上げる羨望の気持ち、そんないろいろな経験が人を育ててくれるような気がします。
一番の人がいるということは、二番以降の人もいるということです。二番手以降がいて、初めて一番というものがあるのだと思います。あくまで一番とは相対的なものであって、絶対的なものではありません。そのように考えてみると、どんな母集団での一番なのか、何を持って一番としているのかなど、「一番」という定義はあいまいなもののようにも見えてきます。
順位をつけることは目標にもなりますしモチベーションにもつながるものです。ただ本当に大切なのは、そのために何をするかであったり、その過程で得たものや見えたことを次に活かしていくことであったりするように思います。どんな順位だったとしても、意味のある経験にすることが大事なのだと思います。
「一番」を目指して切磋琢磨できる仲間がいることは自分を向上させることができますが、蹴落としあう関係では意味がありません。一番を目指す中で、自分がどのような努力ができるか。どんな力を身につけることができるか。それが自分の中で自信というものに変わっていくような気もします。
一番じゃなかったからといって、自分のことを卑下することはありません。自分ができることを精一杯考えて取り組んでみた結果であれば、それは自分にとっての「一番」の結果だと思います。その結果に誇りを持って、また次に向かって歩んでいけるような人でありたいものです。

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