奏者の気づきを大切にして指導をすること ~アレクサンダーの考えをもとにして~

よく言われることですが、吹奏楽はチームプレーが大切です。仲間を信頼し、助け合いながら、チームとして一丸となって力を尽くしていくという点では、チームスポーツと類似しているところは確かにあるようにも思います。
例えば、サッカーでゴール間際にシュートを打つ選手にパスをする選手は、受け取ってくれる仲間の事を信頼して、一番シュートを打ちやすいようにパスを出すようにしています。また、ボールを持っていない選手は、ボールが相手方にとられないように徹底的にマークをし、パスのルートを確保します。そして、シュートをする選手は、今まで仲間がつないできたボールをゴールに決めようと、全力でシュートを蹴り出します。これはバレーボールやバスケットボールなどでも言えることですが、吹奏楽にも十分当てはまることだと思います。
メロディを担当するパートは、自分が受け持ったフレーズを責任持って演奏し、次につないでいく意識を持つことが必要ですし、伴奏を担当するパートは、メロディがうまく引き立つようにバランスを考えて演奏することが大切です。このようなかけ引きが、合奏をする上で最も重要であり、また楽しみでもあると私は考えています。
しかし同時に、そこまで考える余裕、合奏を楽しむ余裕をつくるためには、個人的な課題を根気よく一つ一つ解決していくために練習を重ねていくしかないとも感じています。本当の楽しさに出会うためには、地味ですぐには報われない練習を地道に重ねていくことも必要なのだと思います。そういう意味では、2曲ないし1曲に時間を割いて、丁寧に練習を組み立てていくことができるコンクールの取り組みというものはとても意味があるものですし、個人としても集団としても大きく成長を図れるチャンスでもあると思います。
ただし、コンクールに取り組む上で気をつけなければいけないことがあるようにも感じています。
吹奏楽コンクールが『吹奏楽の甲子園』と呼ばれるようになって久しく経ちます。もちろん出るからには目標は高く持っていたいものですし、自分達で意識を高めて、全力で頑張ることは大切なことです。
でも、「勝つため」に音楽をやっているわけではないのだと思います。
もちろん、全国大会で金賞が取れなかったらコンクールに出る意味はない、と考える人がいてもいいと思います。
ただ、どんな時でも、少しでも聴き手の心に響く音楽を、自分たちも心から楽しんで奏でるのが、吹奏楽をやる上での究極にして恒常的な目標であってほしいと思うのは自分だけでしょうか。たとえきれいごとだと言われたとしても、「賞」という形で結果が残らなかったからといって、実際何も得るものがないわけでもありません。もし得るものがないというのならば、逆に結果より大切なもの=奏者一人ひとりの成長、バンド全体としての成長が得られるような取り組みにすべきなのかとも思います。
コンクールで良い結果を残すためには、最低限「音程」と「タテ」が合っていることが求められます。そこを徹底的に合わせてきたバンドが評価されるのも否定する気はありません。それはそれで音楽の基本でもあるし、努力の成果でもあるからです。確かに「音程」と「タテ」が合っていないと美しい響きがしないのも事実ですし、評価対象としてはまず判断基準にしやすいところでもあると思います。
だからといって、「コンクール用」に特別な曲のつくり方をしているとしたら、それもどこか違う気がします。「音程」や「タテ」を合わせることだけに支配されて、チューナーやメトロノームに合わせることだけが練習になってしまっているとしたら、それもまた極端な練習法だと思うのです。
やっぱり、コンクールであろうが、普段の演奏会であろうが、曲を奏でるときには、根底に『音楽』が流れているということだけは忘れずにいたいところです。その『音楽』のために、奏者が自分の意志で音程やタテを合わせにいき、曲を組み立てていくことに喜びを感じられるような取り組みであるのなら良いと思いますが、指導者に言われたからという理由でそれが強制されるのもまた違うと思います。
一人ひとりが持っている「奏でたい」という思いをどう引き出していくか。
そして、一人ひとりの心から湧き上がってくる音楽をどうまとめていくか。

そこに指揮者の力量が問われているようにも思います。
ここで、今自分が勉強中であるアレクサンダー・テクニークを世に残したF.M.アレクサンダーの話を紹介したいと思います。
《F.M.アレクサンダーの物語》
今から約100年前、シェイクスピア俳優だったアレクサンダーは、朗唱をするときに声が出づらくなるという状況に陥りました。そこでアレクサンダーは、なぜそのような状況に自分があるのか、徹底的に自分の観察をしました。すると、頭を押し下げている時に、声が出づらくなるということに気がつきました。
アレクサンダーは、はじめ「頭を押し下げないように」努力しました。でも、習慣になっていることを直すのは容易ではありません。試行錯誤を繰り返しているうちに、「頭を上へ前へ、背中は広く」という指示を自分自身に送ることで、声の出づらさが改善されることを発見しました。これが『ブライマリーコントロール』と呼ばれる頭と脊椎の関係、アレクサンダーテクニークの根幹となるものの発見です。

このようにして発見されたアレクサンダー・テクニークは、その後多くの教師たちによって引き継がれ、発展してきました。アレクサンダー・テクニークは自己啓発でも宗教でもなく、ただアレクサンダーが行ったように自分自身を観察し、自分の体をどのように使っていけばよいのか考えながら行動する方法に過ぎません。あくまで、アレクサンダー・テクニークは自分の望みを助けてくれるものなのだと思います。だからこそテクニークを上手に取り入れて、自分自身が持っている能力を最大限まで引き上げられるようになっていきたいと考えています。
アレクサンダー・テクニークのレッスンを受けていると思うことがあります。それは、「先生が教えてくれる」という受け身の気持ちでいると、その時一瞬良くなったとしても、自分で再現することはできないということです。あくまで、自分自身で気づくこと、自分から新しい指示を送り続けられるようになることが大切なのだと思います。先生はあくまでアドバイザーであり、服従するものではありません。
教育現場でも同じことが言えると思います。教師は授業の司会進行役であって、決して主役ではありません。生徒が持っている力を引き出し、知識や技術と結びつけていくのが仕事のような気がします。教師主導の方がてっとり早いかもしれませんが、生徒の気付きをじっと待つ姿勢も必要だと思います。
すでに取り入れている学校も多いかと思いますが、私もできるだけ合奏中に生徒たちの発言を求めたり、合奏の様子を録音・録画して生徒たちに見せ、意見交換をさせたりするようにしています。そして、自分たちがどんなふうに音楽を奏でたいか、常に問いかけるように努力しています。うまく進まないこともたくさんあり、つい自分が先導してしまうこともありますが、音楽を共に創る仲間として、互いにはたらきかけあえる、そのような関係づくりをしていきたいと考えています。
コンクールに勝つことだけが全てになって、コンクールだけで燃え付き症候群になって、楽器からも音楽からも離れてしまう人がいるのもまた事実です。続けるか否かはその人の自由だけれど、せめて音楽の本当の楽しさを知った上で選択していけたらよいように思います。そのためにも、押し付けるだけの指導はしたくないところです。
そして、そんな取り組みがスタンダードになってほしいと願うばかりです。
偉そうに書いてしまいましたが、自分もまだまだ勉強不足です。子どもたちが本当に心から楽しんで音楽を奏でられるように頑張っていきたいと思います。

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