『シンポジウム 世界における我が国オーケストラのポジション』についての記事を読んで

少し前になりますが、1月17日付の読売新聞の記事に次のようなものがありました。
『日本のオーケストラに直言…欧米の評論家「楽団員の自発性乏しい」』
http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150113-OYT8T50135.html
この記事を読んでまず感じたことは、日本の西洋音楽は技術的には優れているかもしれないけれど、文化的にはまだ発展途上にあるのかもしれないなということです。
そこで、実際にどのような議論がされていたのかが知りたくなったので検索してみたところ、ライターの小田島久恵さんがブログに同時通訳のメモを載せられていたので、読んでみました。
『シンポジウム 世界における我が国オーケストラのポジション』
http://fatale.honeyee.com/blog/hodashima/archives/2014/12/10/post-286.html
この記事を読んでも分かるように、日本の演奏家やオーケストラについてかなり厳しく言及されたシンポジウムだったのだと思います。
もちろん、日本は「東洋」ですし、根幹となるものが欧米とは異なることも確かです。そして、世界的に活躍中のプレイヤーもたくさんいるのもまた事実です。
しかし、世界的なプレイヤーの多くは、「西洋音楽」の本場である欧米諸国に留学し、技術的なことだけではなく、そこにある音楽を肌で感じながら学んでこられた方が多いように思います。
でも、なぜこれだけ音楽を奏でる人口を抱えている国でありながら、世界的な奏者やオーケストラを国内だけで育てることができていないと言われるのでしょうか。
その答えは「音楽を取り巻く環境」と「学校教育のあり方」にあるような気がします。
西洋音楽の源流となっているものは、讃美歌です。欧米に出掛けると、それぞれの街に代表的な教会があって、多くの人が日曜日には礼拝に出向き、みんなで讃美歌を歌います。ちょっとした街角でも、クラシック音楽を奏でる人がいたりします。このように、欧米では音楽が生活の中に根付いているわけです。
これに対し、日本での西洋音楽との出会いは、音楽一家のような家庭を除いては、幼稚園や学校で“勉強する”ものとして、もしくは習い事で“稽古するもの”として初めて出会うことが少なくないように思います。
勉強するものである以上、どうしても「正確さ」が優先されます。それは、学校教育の中で徹底的に訓練される「正答」を求めるテストの積み重ねが少なからず影響しているように思います。
もちろんそれは悪いことではありません。
でも、そこには音楽が先にあるのではなくて、間違わないことが優先されてしまい、時として自由な音楽表現を奪う風潮をつくりだしてしまっているような気もするのです。
日本人は、いい意味でも悪い意味でも真面目で素直に物事に取り組むという国民性があると思います。だからこそ発展してきた側面もたくさんあります。
しかし、教師が教えたことを覚え、それを吐き出すようなテストを積み重ねている結果、知識は身に付いても、それを積極的に活用する力を学校で身に付けられているかと言われると、残念ながらまだ発展途上にあるようにも思います。
音楽に向かう姿勢も、教育のあり方も、今ちょうど転換期にあたるのかもしれません。
その両方に細々とでも関わっている身としては、心苦しくもあり、逆にやってやろうという気にもなります。少しでもこれからを担う子どもたちが、伸び伸びと表現することができる環境をつくっていくためにも、自分自身がまず学び続け、探究し続けていきたいと思います。

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