努力は最強の武器 ~その矛先をどこに向けるかが課題~

夜中に進路通信(=模試の分析)なるものを書いていたところ、「苦手分野の克服をすべく努力すること」「諦めずに粘り強く頑張ること」をひたすら強調していることに気がつきました。
多くの教員は私と同じように、生徒に「努力する」ことを要求しているような気がします。もちろん、困難なことと向き合い、壁を乗り越えるべく、葛藤しながら努力することで人間的にも大きく成長できると思いますし、それはとても大切なことだと思っています。
でも、「努力の押し付け」は所詮、義務感からやらなければならないと思わせてやらせることであり、「学習」というよりは、「調教」に近いものがあるのではないかと感じることが少なからずあります。
初め「やってみたい」と思うまでのところは確かに教員主導でやらせてみることが必要かもしれません。でも、いつまでも教員主導でやらせているだけでは、どうしても受け身になってしまうでしょうし、身に付くものも身に付かない効率の悪い学習になりかねません。
難しいことではありますが、本来教師の仕事とは、生徒たちの内発的な動機を引き出し、自ら「やりたいからやる」という気持ちで取り組めるような指導であるように思います。
果たして、それを自分はできているだろうか?
そう問いかけてみると、やっぱり「やらせている」ことが多いようにしか思うのです。
確かに、ひたむきで、がむしゃらで、負けず嫌いで、一つのことに夢中になっている人はとても輝いて見えます。そんな人のことを心から応援したいと思います。
でも、そのように思うのは、どこかで真面目に努力することが美しいと思っているからなのだと思うのです。
それ自体は悪くないことだけど、過激な努力至上主義になりすぎてしまうと、すり減って、壊れそうになっても努力を続けなければならない脅迫概念を生み出してしまいます。
そして、真面目に努力をし続けたがために、自分自身を壊してしまうこともあり得ます。どんな状況においても努力しなければならないと生徒を煽り続けることは、実は考え直さなくてはいけないことのように思います。
全体に対して語るときは「頑張れ」「努力しろ」と言うほかないのかもしれません。でも、生徒一人ひとりがどのような思いを抱え、この先どのようにしたいと思っているのか、それを理解した上で、いろんな努力の仕方があること、いろんな道を通ってもよいことを示し、様々な可能性を具体的に指し示すだけの引き出しを持っている必要はあるように思います。
「これならやってみたい」
という生徒たちの気持ちを引き出すことができるか。それが今の教育に求められていることの一つになるような気がしています。
この事は、自分に対しても言えることだと思います。
大切なのは、いつもどこかに客観的に自分を見ることができる自分を置いておくことなのかもしれません。そして、いつでも弱い自分をさらけだすことができる環境をつくっておくことなのかもしれません。努力が自分自身を潰してしまう前に、強がらず、素直になることが必要なのかもしれません。
努力は最強の武器です。
でもその矛先が未知の世界を切り開く方向ではなく、自分に向いてしまったら…。
そんなことを考えつつ、きちんと根拠に基づいていろんな道筋を示すことのできる教師になれるように「努力」したいと思います。
(Twitterまとめ)

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